最近、若い人の中に、本格的に絵を習いたいという人が出てきています。もしかしたら、もっと以前にもいたのかもしれません。近頃は、絵画教室も低調気味ですから、そういう人が集まると目立ちます。その人たちが何を求めているのでしょうか。

いまから美大に入って、学生生活はできそうにありませんが、かつてよりも習得できる気がするようになっているようです。たぶん、その感覚は間違ってはいません。社会に出て、仕事をするうちに、何かを習得するスキルが身についてきたのを感じているはずです。

何かを表現したいというのは人間の自然な感情でしょう。その際、正統派の方法に触れて、感覚とか感性を洗練させていきたいということです。社会を見てきた人が、何が必要なのか、知らずに気づいたことなのかもしれません。今後の動きに注目しています。

本を読まなくなっていたビジネス人が、ある時突然、ショックを受けたといいます。かつての優等生が、異業種の人たちとの勉強会に誘われて出かけて行った時のこと、自分が全く知らない本の話を、参加者がごく普通に話しているのに戸惑ったということでした。

他の人たちは、その本を読んでいたり、少なくともどんな内容なのかを知っていたのです。自分は何年きちんと本を読んでこなかったのか…と思ったといいます。それで本を読もうと思って、本屋さんに行ったそうです。そこで、またショックを受けたとのこと。

本屋さんにいた多くが若者だったということです。まだ年齢からいっても、これからのはずのビジネス人が、もう自分の時代ではなくなると、思ったとのこと。これではいけないと、毎週本屋さんに刺激を受けに出かけるそうです。本代は入場料だと言っていました。

   

本を読まないと、知識の習得で、不利になります。文字に固定された文章は、動きません。記述したものは、繰り返し確認することができますし、別の人たちと同じ文章について語ることもできます。記述と読解は、知的活動に不可欠なものです。

最近は、本を読まない人たちが多くなってきています。これはリスクのあることです。知識が重要視されるようになって、専門領域が大切にされるようになると、基本的な文献を読んでいないこと自体が、遅れにつながります。読むのが前提ということです。

読んだからすごいのではなく、読まないことにリスクがあります。読む習慣をつけておかないと、不利な立場に置かれかねません。文章の意味を取っていくことは、こちら側からの働きかけになります。体がなまらないように運動をするように、練習が必要です。

  

どうやら日本の出版点数も、底打ちしそうな気配になってきました。日本では本の売れない時代が続いていましたが、いつ反転するのか、注目しています。欧米では、すでに2017年から2018年頃に、出版点数が底打ちして、いまでは出版点数も拡大中です。

本を読むことと、知的活動のレベルには、ある種の相関関係があるだろうと思います。本を読むということは、自分から働きかけることですから、積極的な活動です。受け身ではなくて、働きかける活動を継続することによって、積極性が養われることでしょう。

小学生も中学生も、2000年から比べると、2倍くらい読書量が増えています。これは影響があるはずです。いまの若手のビジネス人が、本を読むようにならなくても、あと5年10年したら、様子が変わる可能性が高くなってきました。意識しておくべきでしょう。

  

仕事をしていると、難しい用語を使う人は、あまり咀嚼力がない人ではないかと感じることがあります。まれに、日常使っているような言葉で、妙にわかりやすい言い方で、最新理論を語ってしまう人に出会うと、この人は、すごい人、頭がいいなあと思うでしょう。

ビジネスで成功し続けた社長さんが、まさにそういう人でした。難しい言葉で説明しちゃいけないよ、もっとわかる言葉にならないと、それは本物じゃないからね…と。そんな言い方をしていました。本当にわかったなら、簡単な言葉にできるということです。

もっと高い品質を目ざそうという話があったとき、それを簡単に説明できないといけないね…とのこと。高い品質とは、どんなものか、どうやって達成するのか、簡潔に的確に、わかりやすく説明するのは、至難の業です。これがこの人のトレーニング方法でした。

  

ある分野で飛び抜けた学者が、文科系でも理科系でも必ず、少数ながらいるものです。そして、いずれそうなるだろうという若手も、その分野の研究者のなかでは、たいてい知られています。若いうちから、同僚たちに一目を置かれる存在になっているのです。

そういう若手の学者についての話を聞いたことがあります。文科系の学問の場合、飛び抜けた先行の学者から学ぶのが基本のようです。直接と言うより、その学者の書いた基本書から学ぶことになります。そうやって学んだ側が、優れた学者になった話でした。

先生の名著を、繰り返し読んだそうです。ところが面白いことに、学んだ本と、その人の主張がかなり違うとのこと。思考は同じでも、その表れ方が大きく違いました。追いつこうとして読んでいるうち、かえって違う観点が思いついたようです。興味ある話でした。

  

いくつかの病気を調査した結果、適量のコーヒーを飲む人の発症が少ないという報告がいくつか出されているようです。たとえば1日2-3杯のコーヒーを飲むと、糖尿病の発症率が低くなるとのこと。血糖値がやや高めの人が、意識的にコーヒーを飲んでいました。

薬よりも通常の摂取に近いものですから、自然な感じがします。もしコーヒーの成分を分析して、その成分の中から効果をもたらす物質が見つかったなら、それは薬になるのでしょう。しかし特定の物質が見つかっていないとのこと。不思議な飲み物です。

漢方薬も、そんなところがあるようです。特定の物質が効果を上げるというより、相乗効果があるのでしょう。要素を分析しても、目的にたどり着けないことがあるようです。この場合、細分化しても、分からないということになります。組合せが大切なのです。

  

コペルニクスという人がいました。地動説を唱えた人だということをお聞きになったことでしょう。コペルニクス的転換という言い方があります。あるとき、いままでの感覚ががらりと変わることがあった場合、こんな言い方になるのでしょう。

このコペルニクス的転換というのが、なかなか身にしみてわかりませんでした。しかし仕事をこなしていくと、あっと気づくことがあります。ものごとを素直に見たまま観察すべし、私心を入れずに、客観的に見ていくことだと。そんな考えがあるでしょう。

ところが客観的に見たはずのものが違う場合があるのです。太陽が動くのは確かなはずでした。しかし実際には地球が動いていて、その結果、太陽が動くように見えたのです。同じように、他者の立場で自分を見ると、自己評価が転換します。ある種のショックです。

  

何かを分析し、創造しようとするとき、いくつかのアプローチがあります。畑村洋太郎著『創造学のすすめ』では、「要素」×「構造」⇒「機能」という図式で考えることを提唱していました。これは伝統的な方法、かつての標準的な方法と言ってよいでしょう。

モノの要素を細分化していくと、直観的に「わかった!」となることがあります。分けることが、分かることだという発想です。こうやって不可欠な要素が分析されたなら、それをどう組み立てているのかが問題になります。要素を組立てる構造を見ていくのです。

要素と構造から、どんなモノができたのでしょうか。その問いの答えが、機能ということです。どんな役割を果たすのか、それが目的にかなっているのか。こういう発想でモノを見ていこうということです。この典型的なアプローチは、今でも使えます。