■現代の文章 第10回 規範文法の効用

 

1 「文章を論理的に構成するための基礎的ルール」

ここ数回、文法というよりも、現在使われている日本語の文章がどういうふうに発達してきたのか、という話でした。文法と関係ないようにも見えますが、しかしこれが中断前に少しふれた話につながります。

現代の文章がどう形成され、どっちに向かってきたのかという点について、まだ見るべき点があるのは言うまでもありません。これからも見ていくつもりです。その前に、なぜ日本語の文章の形成を見る必要があるのか、その点について確認しておきましょう。

連載のはじめのほうで、北原保雄の『日本語の文法』について記しておきました。この本は一部の人たちから高く評価されています。丁寧に読むべき本だと思いました。そして以下のように、賛同できる点もあるのです。

▼文法の授業が文章を論理的に構成するための基礎的ルール、論理的思惟の基礎的ルールを教えるものになっていない学校が多いのではないか。文法は、もっと、文章の理解や表現のための基礎的ルールとして、「国語」の教科の中心にすえられなければならないと思うのである。 p.8 『日本語の世界 第6巻 日本語の文法』

その通りでしょう。論理的な文章を書くためのルールを教える必要があるのです。なぜでしょうか。日本語の形成を見れば明らかです。欧米列強に負けない国をつくらなくてはいけないと、大あわてで日本語の散文を整備しようとしてきました。

しかし言葉は簡単に成熟してきません。司馬遼太郎は100年かかると言い、1982年にやっと成熟してきたと講演で語っています。前にもふれた谷崎潤一郎の『文章読本』で以下のように記したのが1934(昭和9)年でした。

▼こゝに困難を感ずるのは、西洋から輸入された科学、哲学、法律等の、学問に関する記述であります。これはその事柄の性質上、緻密で、正確で、隅から隅まではっきりと書くようにしなければならない。然るに日本語の文章では、どうしても巧く行き届きかねる憾みがあります。 p.58: 谷崎潤一郎『文章読本』中公文庫版

日本語では、まだ論理的な文章が書けないということでした。しかし日本語に必要なのは、まさに谷崎が指摘した[緻密で、正確で、隅から隅まではっきりと書く]ことのできる文章のルールです。

1934年の段階では、まだ論理的な文章のスタイルができていなかったのでしょう。しかしその50年ほど後になって、司馬遼太郎は成熟してきたと認定しています。もう十分だとは言えないでしょうが、一定水準を超えてきたとは言えそうです。

北原は[文法(論)は規範文法と記述文法とに分けることができる]と言い、[このようにあるべきだという規範を組織したものが規範文法である](p.10)と記しています。ところが[時代や方処が違えば、規範は違ってくる](p.14)。だから好ましくないということなのでしょう。

北原は[記述文法はこのようであるとありのままに記述するものである][これが正しいとか、これは誤りであるというようなことを言うのではなく、ありのままに記述するのである](p.15)と記しています。北原の本では、記述文法の立場をとっているようです。

しかし日本語が十分に成熟してないうちに、良いも悪いもないとして、「ありのまま」を基準にするのは無理があるといえます。少なくとも、19世紀以降になされてきた日本語の近代化を進めるという目的を達成するためには、役立ちそうにありません。

論理的な文章が書けるようにするには、どうしたら論理的な記述ができるのかというルールを教える必要があるでしょう。しかし教えていません。北原の言うように[文法の授業が文章を論理的に構成するための基礎的ルール、論理的思惟の基礎的ルールを教えるものになっていない](p.8)のです。

     

2 規範文法の効用

谷崎はいま読んでも、わかりやすい文章で『文章読本』を書いています。しかしその文章は[科学、哲学、法律等の、学問に関する記述]には向いていません。別のスタイルでの記述が必要です。

『文章読本』が書かれた時代、1934年時点では、法律の文章はいわゆる「文語」と呼ばれる漢字文の系統の文章体で書かれていました。谷崎はこちらの文章体を『文章読本』の対象から除外しています。

日本語の2系統の文章体が、戦後になって統一した旨、亀井孝の論考を前回見ました。北原保雄も[戦前においては、文語もいわば現代語の一種で、文語(書きことば)と口語(話し言葉。書くときに用いることもある)とが現代語の中で対応する形になるのである](p.18:『日本語の文法』)と、同じ立場を表明しています。

では、北原の言う「文語(書きことば)」はどういう種類のものだったのでしょうか。北原が言います。[文語は学ばなければ書けないものである。文法がわからなければ文章が書けないものである](p.18)。ここでの文法は、言うまでもなく規範文法です。

▼文語は客観的な対象として意識され、その文法は重視されることになる。明治三十八年十二月に文部省から「文法上許容スベキ事項」という公示が出されているほどである。そして、この許容十六項目をふまえて規範文法である文語文法は作られているのである。 p.18 『日本語の世界 第6巻 日本語の文法』

戦前には実質的に規範文法しかなくて、記述文法が成立していなかったと言いたいのでしょうか。日常用いられている口語は[客観的に意識されにくい。意識されないところに研究は起こらないし、また、文法など問題にしなくても事は足りている。特に話しことばの方にこの傾向は著しい](pp..18-19)とあります。

どうやら先に引用した文章は、文法の効用について考えるためではなくて、学校文法批判へと展開するための文章だったようです。学校文法が[口語文法の重要性を認めようとしない][いな、重要性に気づいていないのである](p.21)と続いていきます。

しかし大切なのは「文法知識の効用」のほうです。岩淵悦太郎は『日本語を考える』で、明治38年の「文法上許容スベキ事項」について、[たとえば、「…せさす」「…せらる」を「…さす」「さる」としても差し支えないというようなものである](p.116)と説明しています。そして以下のように記しました。

▼その当時の文語文には、このような誤りが多かったので、それを習慣として許容しようとしたのであった。ところが、私などが中学校教育を受けた大正時代のころには、正しく「…せさす」「…せらる」とするのが普通になっていて、折角の「文法上許容スベキ事項」の大部分は、ほとんど死文になってしまっていた。これは、文語文法の知識が一般に広がったためと言えるのではないかと思う。 pp..116-117 『日本語を考える』講談社学術文庫

きちんとルールを教えれば、正しい用法が定着するのです。合理的なルールなら定着していきます。誤用が多くなって、それが許容されたなら、それを「ありのまま」の言葉とするのが妥当なのでしょうか。

北原は[本来的には規範に外れるものであっても、それが普通一般のことになれば、それがまた新しい規範、新しい文法になるのである](p.12)と記していました。しかし、これではダメなのです。

亀井孝が慎重に言うように、2つあった文章体を統一した[新しい文語がどのようにして起こり、どのようにして発展していったかは、じつは、よくわからない](p.150 『日本列島の言語』)ことでしょう。しかし[新聞と教科書]の影響が大きかったのは間違いないようです。

岩淵悦太郎の指摘に見る通り、戦前の学校文法には効用がありました。北原が本のはじめのほうで書いたように、[文法の授業が文章を論理的に構成するための基礎的ルール](p.8)を教えていくことが大切です。これは開国以来の目指す方向と一致しているでしょう。日本語の発展のために、地道にやっていくしかありません。

しかし北原は、学校文法の極端な批判をした後に、気分が高揚したように、以下の飛躍した発言を行っています。

▼文法教育は言葉についての洞察力を養うものでなければならない。そして、言葉について考えることの楽しさを感得させ、言葉について考えることが好きになるような魅力的なものでありたい。 p.21 『日本語の世界 第6巻 日本語の文法』

あえて反対する必要はありません。しかしなぜ、こんな発言になってしまったのでしょうか。「…ものでなければならない」「…ものでありたい」と記しています。つまり現代の日本語に関する文法が整備されていないからです。もしそれだけ魅力的なものがあったならば、文法はもっと学ばれていたことでしょう。

     

3 価値に基づいた規範が必要

現在、学校文法はほとんど滅びた存在です。小学校の低学年で主語・述語などをわずかに習っています。しかし、その先の発展学習がなされていません。学校文法の隙間を埋める定番の日本語文法の本も用意されていないようです。

近代日本で、日本語を作りながら、文法を作っていくのは無理があったのかもしれません。文語文法の場合、規範がありましたから文法が成立したのでしょうが、しかし価値観を入れずに、「ありのまま」をルール化するというのは無謀というべきでしょう。

客観化というのと、価値観を入れないというのとは別物です。経済学に価値が入っていないという言い方がなされることがありますが、それでは、次の質問を考えてみたらいかがでしょうか。「はい・いいえ」で答えられます。

(1) 豊かになることはよいことだ
(2) 経済格差が拡大することはよいことだ
(3) 失業が増えることはよいことだ

ほぼ例外なく、(1)は「はい」、(2)と(3)は「いいえ」になるでしょう。経済理論も、それを使うときに、どうしても価値から自由になりません。使うことを前提にする場合、価値が入るのは当然のことです。

豊かになるための経済学ならよい経済学です。そうならないなら、役に立ちません。格差が拡大しないようにする経済理論があったら、失業が増えないようにする経済理論があったら、それはよい経済理論です。

メッケルの言葉で言えば、「簡潔・的確」な文にするルールがあったら、それはよいルールです。そのルールを採用して規範にするのが妥当でしょう。「こういう言い方もする」というだけでは不十分なのです。わかりやすい適切な表現・文になるか、が問われます。

日本語の場合、それよりももっと基礎的な部分に問題があったといえるでしょう。19世紀、欧米列強の登場で、日本は大急ぎで近代化しなくてはなりませんでした。近代概念の理解さえままならなかった日本で、日本語を近代化していく必要があったのです。

谷崎潤一郎が『文章読本』で言った[西洋から輸入された科学、哲学、法律等の、学問に関する記述](p.58:中公文庫版)が、日本語でもできるようにならなくては困るのです。

まずは近代概念を表す用語を日本語に取り入れなくてはなりません。さらに2系統あった漢字文系と仮名文系の二つの文章体を統一して、その標準となる文章体で、論理も情感も表現できるようにしなくてはならないのでした。

おそらくこうした経緯を考慮した上で、これまでの文法を再構築しなくては、使える文法にはなりそうにありません。北原保雄『日本語の文法』には9つの章がありました。その最初の章「文法について」の終りのほうに「文法的に考えるということ」という項目が立てられています。

北原は[文法的に考える場合には、まず形態を重視しなければならない]と言い、「雨が降りそうだ」と「雨が降るそうだ」という二つの例文をあげました。両者にはごらんの通り、「降り」と「降る」の違いがあります。

▼前者では「そうだ」が「降る」の連用形に下接しており、後者ではその終止形に下接している。そして、「そうだ」は活用後の連用形に下接した場合には様態の意を表し、終止形に下接した場合には伝聞の意を表す。 p.28 『日本語の世界 第6巻 日本語の文法』

従来からの文法でなされてきた形態を重視した説明です。北原も当然、これだけではダメだと考えています。そこで[ある文の成分や文の要素が他の文の成分や文の要素とどのような資格でどのように関係するかという関係構成の職能][こそが文法論においては重視されなければならない](p.29)とのこと。

残念ながら、その後になされている北原の職能の説明は、よくわかりません。二つの例文について、北原の言う「職能」の説明がなされていればよかったのですが、形態について記した後、説明が途切れてしまっています。

その後につづく別の例文による職能の説明も、魅力的ではありません。たとえば、こんな風なのです。[(a)の意になる場合には、受身格の職能をもって「文法を教えられる」と関係するものであり、(b)の意になる場合には、目的格(与格とも)の職能をもって「文法を教える」と関係するものである](p.33)。

こうしたアプローチが[言葉について考えることが好きになるような魅力的な](p.21)説明になっているとは思えません。学校文法に対する批判が無意味なほど極端なものでしたが、北原のこの説明では相手にされなくなります。

しかし北原の文法はけしてダメな文法書ではないのです。安西徹雄は『日本文の翻訳』で称賛しています。

▼日本語特有の発想法の体系が、今ではしだいに明確に理論化されようとしている。その現況を手短かに知るには、例えば北原保雄氏の『日本語の文法』(昭和56年、中央公論社、「日本語の世界」第6巻)などが参考になる。特にこの本は、一種の文法論史としての性格も備えているので、日本文法研究の過去と現在を知ろうとする者にとっては、役に立つ。 pp..10-11 『日本文の翻訳』

本来は北原の本は、一般向けのものでした。しかし、書くうちに研究者向けの本の傾向が強くなったのかもしれません。安西も[日本文法研究の過去と現在を知ろうとする者]と書いています。

      

4 終止形・文末の感覚的な把握

この連載を始めるとき、北原の説明を叩き台にして、もっとシンプルに説明できないものかと思いました。使う側の視点を重視するなら、説明の仕方が変わるのではないかということです。

北原が示した例文、①「雨が降りそうだ」と、②「雨が降るそうだ」には、「降り」と「降る」の違いがあるのみです。この違いが、どのようにセンテンスの意味に作用しているのかが問題になります。まず、以下のことが言えるでしょう。

*①「雨が降りそうだ」は自分が判断したことを基礎にしている。
*②「雨が降るそうだ」は自分が見聞したことを基礎にしている。

「降るそうだ」と言う場合、他者を前提としています。他者が言ったことを聞くのです。あるいは書いたことを読むのです。他者が言ったり、書いたりしたことはそれが完結した形をとるのが形式的には合理的でしょう。そうなっているのです。

したがって「雨が降るそうだ」というのは、「<雨が降る>そうだ」という他者が提示したものに対して、そうなんだねと追随していることになります。

この点、<雨が降り>では完結しません。<降りそうだ>という形で一体化しています。自分の見聞によって判断しているのです。そうすると③④のように変形した場合、以下のように考えることになります。

*③「雨が降ります」の場合、判断を基礎にしている。
*④「雨が降る」の場合、終止形で完結していることによって自分の存在が消され、その結果として客観的な事実のみが浮かび上がってくる。

両者の違いを日本語で感じ取るには、終止形と文末を感じ取ることが必要です。日本語を母語とする者は、終止形・文末を感覚的に把握しています。このことが、この二つの文の違いを理解する基礎です。

終止形という形があるということは、その前提として活用形があるということになります。動詞なら、ご存知の通りウ段が終止形です。「ます」をつけた文末にするには、動詞はイ段になります。これらは学校文法の知識があれば理解できるでしょう。学校文法は邪魔になりません。

そう言えば、「雨が降ります、雨が降る」という歌がありました。この状況を現代日本語の文で書くならば、「雨が降っています」となります。

また、先の例文①②をあえて区切るなら、「雨が・降りそうだ」と「雨が降る・そうだ」というニュアンスが感じられることでしょう。ポイントは終止形・文末に対する感覚です。センテンスの途中に終止形が来たら、これは何かあると、われわれは反応します。

北原は①②の例文の形態を説明していました。[「そうだ」は活用語の連用形に下接した場合には様態の意を表し、終止形に下接した場合には伝聞の意を表す](p.28)。この通りではあるのです。しかし北原自身が言う通り、これだけでは不十分でしょう。

もうしばらく、行ったり来たりしながら、日本語の文章ルールについて詰めていきたいと思います。

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