■現代の文章 第29回 三上章のアプローチ

1 日本語文法の源流を作った三上章

通説的な見解を最近の日本語文法の入門的な本で探っていこうとしましたが、理屈抜きで、こうだと書いてるところが気になりました。三上章の『現代語法序説』を読んでみると、三上の言うことが現在の通説的な見解の源流だったということがわかります。

現在の通説的な見解のかなり多くの点について、三上章の研究の時点にとどまっている感じがしました。そう言いたくなるほど現在の日本語文法は、三上の後をなぞっているところがあるのです。三上は1953年に『現代語法序説』を書き、1971年に亡くなっています。

1941年に佐久間鼎に入門し、十数年後に最初の本『現代語法序説』を出版、以来10年間で著作集が8冊になりました。最後のまとまった本は1963年の『日本語の構文』です。その後、10年足らずで亡くなりますから、30年ほどの研究ということになるのでしょうか。

出版が始まったころから、病気を抱えていたことが本に記された「三上 章 略年譜」でわかります。三上の場合、最初の文法書を出した時から、大枠は変わっていないようです。少なくとも、主語抹殺という主張が最初から継続していたことは間違いありません。

            

2 違和感がある三上のアプローチ

『日本語の構文』の巻頭を見ると、「動詞のカテゴリー」という項目が置かれていて、ヴォイス・アスペクト・テンス・ムードで動詞の複合体を分析しています。「任せられておられませんでしたか」を例にして、以下のように分析的に示しているのです。

▼任せ -rare -te -or -are -mas -en -desi -ta -ra
原動詞・ヴォイス・アスペクト・尊敬・スタイル・否定・テンス・ムード

最近の本では、ここまでは書かれていないのかもしれません。実際、ここまでやると、いかに無駄なことかわかってしまいます。こうやって分析されたところで、読み書きには役に立ちません。ここまでやってくれると、かえってそれがよくわかるでしょう。

小西甚一が『古文の読解』(改訂版1981年)で[文法でいちばん大切でないのが、品詞分解](p.239)と書いていたことが思い出されます。三上の『日本語の構文』は、読み書きのための文法とは違うアプローチのものであると感じさせるのです。

現在の通説的な見解が、三上のアプローチの延長線上にあるらしいことは、入門書的な本を見れば感じとれます。これとは違うアプローチでないと、一般人は文法の必要性を感じないはずです。読み書きに役立たない文法では、何のための文法なのかと思います。

この本の最後の「Ⅳ 余論」に「主語は問題がありますので……」という項目が、やはりと言うべきかあるのです。「主語」と書かれていると、すぐに反応してしまうのでしょうか。当時著名だったらしい平井昌夫の文章に対して、痛烈な批判を加えています。

わきの甘い文章でしたので、三上は我慢がならなかったのかもしれません。[軽薄なわかったかぶりである]、平井の文章にある[ようなことを平気で書けるのなら、なまじっか“問題ガアリマスノデ”などと書かないほうが無邪気でよろしい](P.172)とあります。

興味深いことも書かれていますが、いまここで、平井を罵倒している部分に言及することはしません。しかし、その後に置かれた清水幾太郎の『論文の書き方』に対する三上の反応に注目しておきましょう。三上の考えを知るうえで参考になると思います。

          

3 「主語がハッキリしている」かどうか

三上は、清水幾太郎の『論文の書き方』に対して、慎重な言い方をしているのです。[評判通りの名著であり、その点について私などが一言も付け加えることはないだろうから、ここに取りあげるのは、同書としては枝葉かもしれない部分である](P.176)とのこと。

三上が取りあげたのは、[主語がハッキリしていること、肯定か否定かがハッキリしていることが大切である]とあったからでしょう。「主語」とあれば、何か言いたかったかもしれません。実際の文にそくして主語について語っていて、よいサンプルになります。

▼日本文法では、“主語がハッキリしている”という意味があまりハッキリしない(こともある)ことに注意を促したいのである。 P.177 『日本語の構文』

三上の言う「主語」の概念は、よくわかりません。ありがたいことに[左右両ページから主語なし文を拾ってみる](P.177)とありますので、ここから三上の言う主語が何を指しているのか、簡易の概念がわかるでしょう。以下の6項目が主語なし文です(P.177)。

①しかし、後になって、自分が彼[A.Comte]に加えた批判というものを読み返してみると、どうも、批判というよりは、犬の遠吠えに似たもので、オーギュスト・コントの傍らへは近寄らずに、遠くのほうから勝手なことを喚いているだけである。
②犬の遠吠えのような批判では、文章の勉強にはならない。
③まして、内容の勉強に貼らなない。
④これを足場に確保しておいて、それから、この時事的な話題の分析や批判を通して、次第にアクチュアルでない本題へ入って行くのである。
⑤社交ではなくて、認識である。
⑥どうにでも受け取れるような曖昧な表現は避けねばならない。

①から⑥は主語が記述されていないということから、主語なし文だということになりそうです。三上は主語という言葉をを否定し、主格と言うべきだとしていました。ここではしかし、それが記述されているか否かが問題とされています。

三上の厳格な定義を聞かされても、おそらくよくわからないでしょうから、ひとまずここでの「主語なし文」がどんなものかがわかれば十分です。例文を列挙して、三上は[これらも“主語がハッキリしている”文と言えるのだろうか]言います。

しかし清水が主語と書いているものは、三上のいう主語とは違うのです。清水が[主語がハッキリしている]というのは、記述されていようがいまいが、センテンスで述べていることの主体が何であるかがわかるということです。「は・が」での区別はありません。

おなじ「主語」という言葉を使っていながら、三上と清水のいう主語の概念は違います。清水の主語概念を勝手に否定して、違うというのは無理があるのです。一方的な主張ですが、しかし根本的な問題は、主語という概念自体が明確になっていない点にあります。

ここからは、三上が列記した①から⑥までを使って、これらのセンテンスの読み方を確認していきましょう。このとき、三上がこだわる「主語」という言葉など使わなくても、何ら問題ありません。大切なのは概念であり、それにふさわしい名前があればよいのです。

       

4 一般用語で伝えたいことが伝わる「主体」

主語という言葉が、一般に知られている言葉になったにもかかわらず、その実態がどんな概念であるかがわからないということは問題です。この点、三上の受け取り方を垣間見ることが出来る部分が、『日本語の構文』の中の、以下の引用部分にあります。

「Ⅰ 動詞のカテゴリー」の中の「3.テンスとアスペクト」の中に、亀井孝の動詞の終止形についての考えが示されています。その引用された文章に対して、三上は賛同して、[あるいは次のような見方もできよう](P.18『日本語の構文』)と記しています。

▼動詞の終止形は、むしろ未来に対する主体の一つの態度を表現する形である。「生あるものは必ず滅する」などは一般的な心理の表現と言われるが終止形として表す意味は、断定的な予言に他ならない。(亀井孝『国語学辞典』)  P.18 『日本語の構文』

ここに記された内容を論じようというのではありません。亀井が[未来に対する主体の一つの態度]という言い方をしていること、さらにそれを素直に三上が受け取っていることが注目されます。「主体」という言葉は標準的な一般用語として使える言葉です。

三上は『現代語法序説』の第二章で「主格、主題、主語」を論じました。「主格」は国際的に通ずる概念であり、「主題」は一般用語であり、[言語心理に普遍的な概念]とみなします。「主語」は文法用語ですが、三上によれば日本語では使えない概念です。

この点、「主体」は一般用語であり、普遍的な概念といえるでしょう。文法用語でないことが有利に働きます。三上も受け入れたように、一般的な用法で、伝えたいことが伝わる用語です。定義が錯綜して、無駄なエネルギーを使う用語は適切ではありません。

文末と主体という一般に使われる用語を使って、先の清水幾太郎『論文の書き方』から三上が引いた文章を確認していきます。清水が主語としている概念は、文末の主体であると言っても、問題ないでしょう。おそらく清水もこの用語を否定しないはずです。

             

5 6つの例文の主体

もう一度、6つの例文をあげておきます。これらのセンテンスの主体が「ハッキリしている」かどうかを確認しましょう。ここだけを抜き出すとわからないのですが、前後の文脈を見ると、さすがに清水幾太郎なのです。ハッキリしています。以下をご覧ください。

①しかし、後になって、自分が彼[A.Comte]に加えた批判というものを読み返してみると、どうも、批判というよりは、犬の遠吠えに似たもので、オーギュスト・コントの傍らへは近寄らずに、遠くのほうから勝手なことを喚いているだけである。
②犬の遠吠えのような批判では、文章の勉強にはならない。
③まして、内容の勉強にはならない。
④これを足場に確保しておいて、それから、この時事的な話題の分析や批判を通して、次第にアクチュアルでない本題へ入って行くのである。
⑤社交ではなくて、認識である。
⑥どうにでも受け取れるような曖昧な表現は避けねばならない。

①の文の骨組みは、「自分の批判を読み返してみると、批判というよりは犬の遠吠えに似たもので、勝手なことをわめいているだけである」といったところでしょう。最初の部分「自分の批判を読み返してみると」は基本形に対する条件ということになります。

「いつ・どこで・どんな場合」の条件です。私たちはこれをTPOとかTPOの条件という言い方をします。基本文型には入らない部分ですから、この場所には「主語」=「主体(文末の主体)」は存在しません。その後の部分を見て確認していくことになります。

「批判というよりは、犬の遠吠えに似たもので、オーギュスト・コントの傍らへは近寄らずに、遠くのほうから勝手なことを喚いているだけである」という部分全体が文末といえるでしょう。この部分の構造をみてみるならば、以下のようになっています。

・批判というよりは…喚いているだけである
・犬の遠吠えに似たもので…喚いているだけである
・オーギュスト・コントの傍らへは近寄らずに…喚いているだけである
・遠くのほうから勝手なことを…喚いているだけである

【喚いているだけである】の主体は、【私の書いたものは】です。【私の書いたものは】+【(あれこれ)喚いているだけである】となります。わかりやすい文でしょう。私の書いたものは、批判になっておらず、ただ喚いているだけである…というのです。

②の「犬の遠吠えのような批判では、文章の勉強にはならない」の場合、文法のルールを知らないと、主体が何になるだろうと、戸惑うかもしれません。文末をみてみましょう。「~にはならない」という形をとる場合、どんなルールで文が成立するでしょうか。

「~になる/ならない」の場合、「Aは/が」+「Bになる」の形を取ります。このとき、AとBの関係のルールがあります。「A」になるのは、「誰・何・どこ・いつ」を表す言葉であり、「B」になるのは、Aで示された言葉に対応する言葉です。

Aが「誰」なら、Bは「どんな人・立場」になります。Aが「何」なら、Bは「どんなモノ・コト」でなくてはなりません。Aが「どこ」なら、Bは「どんな場所・地位」ですし、Aが「いつ」なら、Bは「どんな時間」です。こういうルールがあります。

・「誰は・が」⇔「人」
・「何は・が」⇔「モノ・コト」
・「どこは・が」⇔「場」
・「いつは・が」⇔「時」

こうした対応関係は、【Aは・が…Bです】と同様です。「あの人が担当です」「この本は課題図書です」「ここが草津温泉です」「出発時間は8時です」という形式になります。【Aは・が…Bになる/ならない】におけるAとBの関係は、同様です。

こういう構造の文ですから、Aが主体であり、Bが文末です。前記②の場合、「文章の勉強にはならない」が文末になっています。その前の、「犬の遠吠えのような批判では」というのは、「批判であるならば」という条件を表していて、基本文型には入りません。

そうなると、主体+「【文章の勉強】にはならない」となります。「文章の勉強」はコトに該当しますから、主体は「何」ということでしょう。①の主体が【私の書いたもの】だったのに対して、②の場合、モノでなくてコトです。「~すること」になります。

②の主体は、「書くこと」です。「犬の遠吠えのような批判では、【書くことが】文章の勉強にはならない」となります。同じように、③「まして、内容の勉強にはならない」も、「まして、【書くことが】内容の勉強にはならない」のです。

④は、「私」という主体が抜けた形式の文ですから、わかるでしょう。⑤の場合、「会話と違って、文章は社交ではない」を受けているので、⑤「【文章は】社交ではなくて、認識である」となります。⑥は「われわれは・~を」の形式の文です。

      

6 センテンスの骨格:主体+文末

清水の文章はわかりやすい文章と言えます。[主語がハッキリしていること、肯定か否定かがハッキリしていること]が特徴の一つです。「主語」という用語は、あれこれ言われますから、主体と言いますが、主体を押さえておけば、文の意味も分かります。

先の6つの例文の主体と文末を記せば、以下のようになるでしょう。こうやってセンテンスの骨組みの部分がわかると、意味が正確にとれるようになります。ひとまずなすべきことは、主体と文末との関係を押さえることです。それができれば、正確に読めます。

①【私の書いたものは】【勝手なことを喚いているだけである】
②【書くことが】【文章の勉強にはならない】
③【書くことが】【内容の勉強にはならない】
④【私は】【入って行くのである】
⑤【文章は】【認識である】
⑥【われわれは】【避けねばならない】

センテンスを抜き出して文脈から切り離してしまうと、主体がわからなくなることはあります。しかし文章の中にあって、主体がわからない文があったら、それは不適切な文だというべきでしょう。主体が「ハッキリしていること」は大切だということです。

三上は主語という言葉を出して、[“主語がハッキリしている”文と言えるのだろうか]と言いながら、しかし、[“文意がハッキリしている”ことは確かである](P.177)と認めています。文意がハッキリしているのは、主体が明確な文だからです。

日本語では主体を記述することを原則としていません。河野六郎は日本語を単肢言語と呼びました(「日本語・特質」『日本列島の言語』)。単肢言語の場合、主語(主体)の記述を不可欠としないこと、記述する場合に強調のニュアンスを帯びることがあります。

大切なのは、読み書きするときに、主体がわかっていることです。主体の記述は不可欠なことではありません。読み書きをする双方にとって、主体がわかるようになっていないと困ります。文末とその主体がセンテンスの骨組みになっているということです。

       

7 主体、キーワード、TPOの要素と助詞

主体と文末の対応関係がわかれば、センテンスの意味はとれるでしょう。日本語では「主体+文末」だけで言いたいことが表現できない場合、必要なキーワードが補われるルールになっています。補語とも呼ばれますが、一般用語ならばキーワードになるでしょう。

「彼女は本を読んでいます」ならば、主体は【彼女(は)】、文末は【読んでいます】です。これだけではわからなくて、「何を?」となります。ここで補われるキーとなる言葉は【本を】です。「主体」+「キーワード」+「文末」と一般用語で考えましょう。

「私は京都に行きました」とあったら、主体は【私(は)】、文末は【行きました】。キーワードは【京都に】です。[1]「主体+文末」、[2]「主体+キーワード+文末」、[3]「主体+キーワード+キーワード+文末」が、日本語の基本文型ということになります。

これについては、また後ほど、ていねいに見ていきましょう。いままで出てきたセンテンスの要素を確認しておくと、主体と文末、キーワード、それにTPOの条件です。この4つを使って英語のS・V・O・Cのように、文構造を分析していくことができるのです。

日本語の場合、主体だ、キーワードだと判定するときに、どの要素であるかが簡単にわかるように目印をつけています。それが助詞です。主体には原則として「は・が」が接続しますし、キーワードならば「が・を・に」がつきます。

先に触れたTPOの条件の場合、「いつ・どこで・どんな場合」に該当するものでした。TPOの条件には、「いつに」「いつで」「どこで」「何で」というように、「に・で」が接続します。主体、キーワード、TPOの要素は、接続する助詞で推定できるのです。

      

8 助詞「は・が・を・に・で」のグラデーション構造

ここで接続する主な助詞を確認しておきましょう。【主体:は/が】、【キー:が/を/に】、【TPO:に/で】…ということになります。助詞がグラデーション構造を作っているのがわかるでしょうか。主体・キー・TPOの要素に接続する助詞が重なっています。

主体に接続する助詞は「は/が」。キーワードに接続する助詞が「が/を/に」ですから、「が」は主体にもキーワードにも接続します。助詞「に」の場合、TPOに接続する助詞が「に/で」ですから、キーワードにもTPOにも接続可能ということです。

キーワードに接続する「が」は、例文で見たほうがわかりやすいでしょう。「私は・ドーナツが・好きです」の主体は「私は」です。「ドーナツが」がキーワードになります。「8時に学校に行きました」ならば、「8時に」がTPO、「学校に」がキーワードです。

これらの主要な助詞を並べてみると、「は・が・を・に・で」になっています。これらが主体・キーワード・TPOの目印になるのは申しあげたとおりです。このとき、以下に見るように、日本語の主要な助詞はグラデーション構造を形成しています。

主体:|は|が|
キー:    |が|を|に|
TPO :         |に|で|

このように、日本語の主要な助詞はグラデーション構造を作っていますから、主語だけが特別な存在にはなりまえん。こうした助詞のグラデーション構造を無視して、助詞「は」だけを取り出して、主題の助詞だとするのはずいぶん強引なことでした。

「は」だけを取り出すのは、日本語の構造に沿わないのです。主体を表すのに、「は」接続と「が」接続では違ったニュアンスがあります。主体を表すときに、複数の助詞があることは合理的です。キーワードでも、「が」と「を」の接続の違いが大切になります。

三上章の主張や、通説的な見解は、「は」と「が」の違いに意識が行き過ぎているのではないかと思うのです。また、「は」だけを取り出して特別扱いすれば、無理で強引な構築をしなくてはならなくなります。日本語のもつ自然な秩序をルールとすべきでしょう。

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■現代の文章 第28回 センテンスの中核となる要素

1 三上章『現代語法序説』の「主格、主題、主語」

前回、渡部昇一が、主語と主題について、両者を区別しない言い方をしていたことを紹介しました。ここでのポイントは、主語とか主題とかを定義することよりも、対応する相手方が問題なのだということです。対応する相手方を無視しては意味がありません。

主語であろうと主題であろうと、両者の概念だけを取り出す場合、厳密で客観的な定義などできないということです。個別の定義よりも、対応する相手を問題にして、その対応相手の概念を明示してもらいたいということになります。そうでないと意味がありません。

三上章の『現代語法序説』を見ると、第二章が「主格、主題、主語」となっています。この本は1953年の出版ですから、ずいぶん昔の本です。しかし、いまでも参照されることがよくあります。第二章の冒頭「一.用語の区別」で、以下のように記していました。

▼用語の問題だから、少しでも混乱を少くするために、はじめに横文字を添えて示す。
主格-nominative case
主題-theme(一般用語)
主語-subject(文法線用語とする)
『現代語法序説』 p.73 (1972年版)

なかなか面白い並びです。主格というのは[動詞に対する論理的諸関係を表す諸格中の第一格で][だいたいは国際的に通ずる概念]だとのこと。つまり文法用語だということになります。一方、主題は「一般用語」とありますから、文法用語ではありません。

しかし[主題も言語心理に普遍的な概念といってよかろう]とのこと。[しかし主語はそうではない](以上、p.73)とのことです。ここから先は、三上流の主語の定義が語られています。それは「国際的に通ずる」とか「普遍的な概念」ではありません。

ポイントになるのは、三上自身が[subjectの語義はまさしく主題なのである](p.76)と記している点です。渡部昇一が対談や一般向けの文章では、主語と主題をあまり厳格に分けずに使っていたのも、そんなところがあるからでしょう。

ただし三上の場合、考え方がここから大きく違ってくるのです。[主題は、しかし日本文法では初めから重要な役割をする文法概念である](p.88)と記しています。「一般用語」で「言語心理に普遍的な概念」である主題が、日本語では文法概念になるようです。

さらに三上は[主題+解説は言語心理に普遍的な概念]だと書いていました(p.97)。ところが「花が咲いた」という文の場合、[言語学者小林秀夫氏によれば、やはり「花ガ」は主題で「咲イタ」は解説だそうである](p.96)。しかし納得してはいません。

[この際私は、西洋文法的博識よりも松下文法式論理の方に組せざるを得ない](p.96)と三上は言うのです。つまり[主題は別系統の「ハ」の受持だから、たんなる「ガ」は主題ではなく無題である](p.93)と書いていたのは、三上の意見でしかないということです。

では三上は主題の相手として、解説を選んだのでしょうか。主語を否定していますが、述語は否定していません。三上が考える日本語の基本構造と各要素はどうなるのでしょうか。『現代語法序説』では、このあたりが明らかではありません。

以前(連載第19回)触れた庵功雄『新しい日本語学入門』でも、[三上は「主語」や「主述関係」に代えてどのような概念を用いたのでしょうか。その概念は主題です。主題というのは、その文で述べたい内容の範囲を定めたものです](p.87)と書いてありました。

そして[三上は「主語」や「主述関係」に代えてどのような概念を用いたのでしょうか。その概念は主題です。主題というのは、その文で述べたい内容の範囲を定めたものです](p.87)と庵は記すのです。『現代語法序説』をみても、ここまでしかわかりません。

           

2 益岡隆志・田窪行則『基礎日本語文法』の基礎成分

三上の流れをくむ基本的な文法の本で確認したほうがよさそうです。益岡隆志と田窪行則の共著『基礎日本語文法』に、この点が明確に記されています。この本は1989年に初版が出され、その後、1992年に改定版が出版されましたが、この部分は変わっていません。

▼文の組み立ては、複雑かつ多様なものであるが、その骨格をなすものは、「述語」、「補足語」、「修飾語」、「主題」である。 『基礎日本語文法』1989年版 p.3

これはシンプルです。これらの概念は連載第26回でも触れておいた通説的な日本語文法の考えと矛盾していません。通説的な文構造に、上記を当てはめて考えてみれば、わかりやすいと思います。日本語文の基本構造は、通説では以下のように考えられています。

▼【主題:~は】+【解説:「コト」+「ムードの表現」】

解説を「コト」+「ムードの表現」としているのが、わかりにくいと思います。『基礎日本語文法』の用語に合わせて示すと、【主題】+【補足語】+【述語】+【ムード】ということになります。【ムード】という概念が、通説的見解として新しくついた部分です。

もう少し場合分けをしてみると、以下になります。

[1] 今日の午後には台風が上陸するそうだ。
主題 【今日の午後には】
補足語【台風が】
述語 【上陸する】
ムード【そうだ】

[2] 今日の午後には台風が上陸する。
主題 【今日の午後には】
補足語【台風が】
述語 【上陸する】

[3] 台風が上陸するそうだ。
補足語【台風が】
述語 【上陸する】
ムード【そうだ】

[4] 台風が上陸する。
補足語【台風が】
述語 【上陸する】

何となく、わかってきます。しかしこれで満足するでしょうか。益岡隆志は1992年に『基礎日本語文法』の改定版を書いた後、『岩波講座言語の科学 5 文法』の「2 文法の基礎概念Ⅰ」で成分という言い方で、先の4成分に「状況成分」を加えました。

「2 文法の基礎概念Ⅰ」の用語でいえば、「述語成分」「補足成分」「述語修飾成分」「状況成分」「主題成分」になります。「述語・補足語・修飾語・主題」というシンプルな言い方が好ましく感じますので、状況成分も「状況語」と言いたくなります。

用語はひとまず置くとして、本当に「状況成分」という概念が必要なのか、使えるものなのか、いささか心配があるのです。状況成分というのは、どんな概念だったか、ふりかえっておきましょう。益岡は、以下のように説明していました。

▼文頭において、出来事が生起した時と場所を表すものがある。これらの成分は、述語修飾成分の一種ともみられるが、ここでは、文頭に表れている点を重視し、一般の述語修飾成分とは区別して状況成分と呼ぶことにする。 p.45 『岩波講座言語の科学 5 文法』

この説明に従うならば、「今日の午後には台風が上陸する」のうち「今日の午後には」は「状況成分」になるのでしょうか。あるいは「主題」になるのでしょうか。概念の説明だけでは、わかりません。先の説明では「今日の午後には」は主題になっていました。

おそらく、それでよいのでしょう。「は」接続は主題というのが優先されるはずです。例文が「今日の午後に台風が上陸する」になったなら、「今日の午後に」が「状況成分」になると考えることができるでしょう。つまり、以下のようになるということです。

* 今日の午後に台風が上陸する。今日の午後には台風が上陸する。
状況成分 【今日の午後に】/ 主題成分 【今日の午後には】
補足成分 【台風が】
述語成分 【上陸する】

          

3 「いつ・どこで・誰が・何を・どうした」の場合

三上章の主語否定論は元気のよい意見でしたし、その延長線上に通説的な見解が形成されてきたとも言えそうです。日本語文法の基礎概念として、益岡隆志は「状況成分」を加えて解説していました。こうした修正がなされるのは、当然のことでしょう。

問題は、こうした基礎概念自体が、簡単に受け入れられない点にあります。日本語で、一番典型的な文形式の一つと言えるのが、「いつ・どこで・誰が・何を・どうした」というものでしょう。これを先の基礎概念で区分した場合、妥当なものになるかが問題です。

▼「いつ・どこで・誰が・何を・どうした」
状況成分 【いつ】
状況成分 【どこで】
補足成分 【誰が】
補足成分 【何を】
述語成分 【どうした】

もし、「述語・補足語・修飾語・主題」で考えるならば、この文例は、どうなるのでしょうか。問題になるのは、「いつ・どこで」の部分です。状況成分という概念がなくなりますし、「主題」でもありません。「修飾語」と考えるしかないはずです。

先の益岡の概念説明からすると、これ以外の答えはありません。この部分をもう一度、見ておきましょう。[文頭において、出来事が生起した時と場所を表すものがある。これらの成分は、述語修飾成分の一種ともみられる]とあります。以下のようになるはずです。

▼「いつ・どこで・誰が・何を・どうした」
修飾語 【いつ】
修飾語 【どこで】
補足語 【誰が】
補足語 【何を】
述語  【どうした】

どうも、基礎概念が役立つ気配がありません。実務で文章を書いているビジネス人ならば、典型的な文例を3つの要素に分けて、修飾語か状況語「いつ・どこで」+補足語「誰が・何を」+述語「どうした」といわれても、使えないと判断する以外にありません。

元気よく主語の廃止を主張した後に、誰かが述語の再定義をするなり、別概念を示せばよかったのです。述語の概念が定まらないから、こうなるのです。三上章のアプローチは、主格・主題・主語の概念を分けることからはじまっていました。そこで止まっています。

三上は『現代語法序説』で[名詞文はコプラ動詞を必要とする点で、純粋さを失った名詞文である](p.74)と書いてました。「コプラ動詞」というのは、日本語の場合ならば、「です・ます・である・ようだ・そうだ・違いない」などが該当するようです。

日本語文法の場合、名詞文と言えば、現在では述語の品詞が名詞ということです。述語という概念を重視すると、そうなるのでしょう。しかし主語よりも、述語の概念が問題です。述語概念から再構築していけば、基礎概念が違うものになった可能性があります。

      

4 文末の「機能・内容・形式」

述語を考えるとき、述語の品詞をもとに「名詞文・形容詞文・動詞文」に分ける考え方があります。述語と呼ばれる要素には、中核となる言葉が存在しているという発想です。述語が日本語の中心的存在であり、さらにその中核の言葉があるということになります。

述語の中核となるものの品詞は「名詞・形容詞・動詞」があると考えると、その後ろに様々な要素が付け加わるという考えになっていったのでしょう。「ボイス」「アスペクト」「テンス」などの要素を付加した述語が形成されるという考えになります。

こうやって要素の分類をしていけば、述語の分析にはなるかもしれませんが、日本語の文を構成する基礎概念として不安定なものになりかねません。モダニティ・ムードというものは述語に付加された要素だとみなすことになるなど、違和感があります。

しかし一番問題なのは、品詞で述語を分類する発想を取り入れたことでした。これで日本語の基礎概念としては使えなくなった、あるいは使いにくくなったと思います。述語を中核の言葉の品詞で考えることは、読み書きをするときの感覚的な発想とは合致しません。

私たちは、文を終えるときの形を身に着けています。終止形という言い方もなされますし、そういう形があります。用言ならば、活用がありますので、文を終える形にする必要があるということです。こうした文を終える形を取る点で、共通性があります。

三上章が[コプラ動詞を必要とする点で、純粋さを失った名詞文]という言い方をしていましたが、日本語の場合であれば、名詞が文末に来ることはありません。すべて文末は、終止形になります。名詞で文が終わることは、まれな例外でしかないのです。

まれな例外であるからこそ、私たちは、あえてそういう形式に「体言止め」という名前をつけて、例外であることを感じています。通常の形式ならば、いわば「用言止め」になっていなくてはいけないのです。文末を用言止めにする原則が重要になります。

日本語の場合、文末という定位置に、終止形の体言を置くことによって、センテンスを終えるのです。センテンスを終えることによって、文の意味内容が確定します。文末に置かれる内容は、センテンスの主体に関する叙述になっているのです。

日本語の文末には「機能」的にも、「内容」的にも、「形式」の面からも、文末になるための要件があります。こうした共通性があるのです。述語という概念とは違った発想で見ていかなくてはなりません。日本語のセンテンスの文末について整理しておきましょう。

【文末の機能】
(1) センテンスを終える機能
(2) センテンスの意味を確定する機能

【文末の叙述内容】
(1) センテンスの主体を対象とした叙述
(2) 文末を見れば、主体概念がある程度絞り込まれる叙述

【文末の形式】
(1) 用言の終止形で終わる語句
(2) 例外:①体言止め、②最後に「ね/よ」などの終助詞が接続する場合

「私です」とあれば、用言の終止形が最後に接続していますから、私たちは文末だと苦もなくわかります。終止形というのは、日本語を母語とする人にとっては、直感的にわかる形式です。その結果、センテンスが終わり、文が次へと流れるのが認識できます。

文末には、主体に関する叙述内容が置かれているのです。文末という固定位置に置かれるために、主体が判別しやすい構造になっています。対応する主体がわかる場合、あえて主体を記述する必要はありません。わかるのに記述する場合、主体の強調になります。

日本語のこうした構造から当然のこととして、読み書きする人に、文末の主体がわかるようになっていなくてはなりません。主体の共通認識があるということが、文の伝達における前提条件となっています。日本語では、主体が特別な要素となっているのです。

「いつ・どこで・誰が・何を・どうした」のうち、文末の「どうした」を見れば、誰かの行為であると推定できます。あるいは人間でないかもしれません。文をたどれば、主体が記述されていなくても、わかるでしょう。わからなければ、文が不適切なのです。

文末を見れば、主体が明確になります。あれかもしれないとか、これかもしれないということはありません。主体となるのは、「誰・何・どこ・いつ」を表す体言です。文末を見たり、文中の「は/が」などの助詞が目印になって、判別は容易なことでしょう。

「主体は体言、文末は用言」という原則が成り立ちます。今まで見てきた通説的見解のように、助詞「は」と「が」を判別のために利用する必要はないのです。河野六郎が、日本語を単肢言語と表現しました。主体の記述が不可欠でない言語だということです。

      

5 英文の文意を決めるもの

日本語の特徴は、文末に主体に関する叙述が置かれているという点にあります。これはセンテンスの中核的な役割を担う部分の位置が固定化されているということです。日本語は、その点で、きわめて有利な条件を持っているということにもなります。

英語について、安井稔が「学習英文法への期待」で重要な指摘をしていました。『学習英文法を見直したい』に所収されています。ここで安井は「文の構造と5文型」について、言及しながら、以下のように問題提起をしているのでした。

▼与えられた分が、例えば、SVOCの型の文であるとわかれば、生徒も先生もともに納得し、一件落着となります。けれども、その文がSVOCという文型であるということ自体は、どのようにしてわかるにいたるのでしょうか。 p.268 『学習英文法を見直したい』

言われれば当然のことで、問題になるポイントでした。文意がわからないのに文型がわかるということは[通例ありません](p.268)から、[文型の決定に至る道筋は、文意の決定に至る道筋とほぼ重なっている](pp..268-269)ということになります。

安井は[文意の決定は何を手掛かりとし、どこからはじめてゆくべきものでしょうか]と問うたのです。[正解は、「述語動詞に着目することから始める」とするものでしょう](p.269)ということになります。日本語の文で言えば、文末に着目することです。

▼述語動詞というものは、その文の中で、いわば、最高の権威を与えられている語です。ここで、便宜上、時や場所を表す副詞的修飾語句を切り離しておくことにします。すると、文中の述語動詞以外のすべての語句は、述語動詞に支配され、統率されているという関係が成り立つことになります。 p.269 『学習英文法を見直したい』

英語の場合も、「述語動詞以外のすべての語句は、述語動詞に支配され、統率されている」と言うことができます。日本語の基本要素も、文末との対応関係を持ち、文末に統率されていると言えるでしょう。安井は、日本語の「は/が」についても重要な指摘をしています。

▼ラジオのニュース番組で「なでしこジャパンは昨夜オーストラリアと戦いました」と言っていたとします。続けて「なでしこジャパンが…」と言ったとき、急に停電になったと仮定してみましょう。この時点で、つまり後に続く放送を聞かないままで、どちらが勝ったか予測できるでしょうか。 p.274 『学習英文法を見直したい』

日本語には、主体を表すために対照的な機能をもつ助詞「は」と「が」があります。このことによって、私たちは単なる主体というだけでなくて、センテンスの主体となる言葉について、扱い方の違いを感じ取ることができるのです。これは以下のようなものでした。

▼助詞「は」と「が」の機能
「は」: 特定・限定された対象 絶対的・客観的なニュアンスを表す
「が」: 選出・確定された対象 相対的・主観的なニュアンスを表す

これをヒントにして、「なでしこジャパンは昨夜オーストラリアと戦いました。なでしこジャパンが…」とあったら、どうなるかです。客観的事実として、日本代表の「なでしこジャパン」は、オーストラリアと戦いました。そして「なでしこジャパンが…」です。

▼特別なことがないかぎり、なでしこジャパンの勝ちです。どうしてそういうことが言えるのでしょうか。鍵は「が」にあります。
 こういう場合の「が」には、問題となっていることを唯一的に指定するという働きがあります。上で触れたサッカー試合の場合、問題となっているのは「その試合に勝ったチーム」と考えることが出来ます。つまり、「どちらかが勝った」ということは既知情報で、その「とちら」かを唯一的に指定しているのが「なでしこジャパンが」であるということです。 p.274 『学習英文法を見直したい』

なでしこジャパンとオーストラリアの二つのうち、なでしこジャパンが選び出され、勝利のチームとして確定したことを、「なでしこジャパンが」の「が」で表すことができたのです。主体を表す「は」と「が」という機能の違う助詞があることは幸いなことでした。

安井は続けます。[もし「なでしこジャパンが」の代わりに「なでしこジャパンは」が用いられていたらどうでしょうか。それは、なでしこジャパンが負けたか引き分けた場合ということ](p.274)です。「なでしこジャパンは」では「勝った!」とは言えません。

こうした主体と主体に関する叙述については、前回引いたように、渡部昇一が『学問こそが教養である』で語っていることでもありました。[文の本質]は[何について何を叙述するか](p.164)ということであるのです。以下、確認のために引いておきます。

▼話そうとすれば、まず「何について話そうとするか」がわからないといけないわけで、それから「何を話すか」ですね。これだけ押えておけば、表現形式が日本語と英語で多少違っても、大筋においてはなんとか通るんです。 p.164 『学問こそが教養である』

主体がわかるということは、「何について話そうとするか」がわかるということになります。文末に置かれるのは、[何を叙述するか][何を話すか]の内容です。主体と文末の関係が[一番の基本]になります。この点は、日本語でも英語でも変わりません。

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■現代の文章 第27回 文の本質

 

1 宿題についての原沢の説明

前回宿題にした例文がありました。原沢伊都夫『日本人のための日本語文法入門』にあった「月はきれいだ」「月がきれいだ」の2つの例文がどう違うのかという問題です。原沢は2文の[状況を思い浮かべていただきたいと思います](p.151)と記していました。

文法的な違いについて原沢は[「~は」は主題を表し、「~が」は主語を表しました。両者の文法的な役割は徹底的に違ってましたね](p.150)と確認した上で、状況を思い浮かべられるかを問うているのです。主題と主語の違いを問うているとも言えます。

① 月はきれいだ
② 月がきれいだ

たぶん両者のニュアンスの違いは、わかるはずです。違いがあるのはわかるけれども、簡潔にこうだと言えないというところでしょう。原沢の解答が示されていますので、それを参考に考えてみるのがよいかもしれません。通説的な考えを知ることができます。

原沢は、ムードについて解説する[7章 文を完結する「ムード」の役割]に[「は/が」の使い分け]の項目を立てて、この2つの例文をあげました。[コトの内容をそのまま聞き手に提示するのが断定のムード]であり、この2つの例文もそれに該当します。

文末が「きれいだ」というのは、断定のムードになるようです。ただし、ここでの問題は、「は」と「が」の違いであり、主題と主語の違いでした。[この例文の意味の違いを考えるために]状況を思い浮かべる必要があるということです。

原沢のイメージした状況によると、①は[「月」の一般論を述べている場面]であり、[誰でも知っているごく身近な存在]の[「月」を話題にして、「きれいだ」と説明している文]になります。[一般論を述べている]のです(pp..151-152)。

②は[月が見えるところで、その月を眺めながら発した言葉]であり、[話し手が自分の見たままをそのまま聞き手に伝えること]がこの文の特徴だいうことでした。[ありのままに提示するので、主題化はおこなわれない]という説明になります(p.152)。

           

2 通用しない日本語文法学界の説明

原沢の説明に従えば、主題は一般論を述べ、主語は見たままをそのまま聞き手に伝えるもののようです。通説的な立場では、こう考えているのかもしれません。すでに連載25回目で見た益岡隆志の『岩波講座言語の科学5』での説明でも、似た説明になっていました。

益岡の場合、「空は青い」「空が真っ暗だ」を並べて、前者では[「空」というものに対して「青い」という説明を与えている](p.46)と解説しています。つまり「空」という主題に対して、いわば一般論的な説明を加えているという説明と方向は同じです。

後者では[観察された状況をそのまま言葉で描きあげている](p.46)との解説ですから、原沢のいう「見たままをそのまま聞き手に伝える」のと同じ見解でしょう。主題に対しては一般論を語り、主語に対しでは観察されたものを語るということになりそうです。

だから「① 月はきれいだ」は一般論を語る内容、「② 月がきれいだ」は観察をそのまま語る内容なのでしょう。この2つの例文ならば、そう言えるかもしれません。しかし、この見解を主題・主語に広げて、一般化し標準的な説明にすることは妥当でしょうか。

原沢は「断定のムード」の項で例文を出し、さらに[誰でも知っているごく身近な存在]である「月」を例にしながら解説しました。ここからいきなり「一般論を述べている」との見解を示したのです。益岡の解説よりも一歩踏み込み、説明が飛躍しています。

益岡の場合、断定のムードに限定せず、主題の概念を例文で解説するにとどめていました。この点、原沢の見解は断定的なムードをもった明確さがあって、魅力的かもしれません。主題・主語の概念を一般論化したものであり、標準化された概念と言えます。

しかし、この見解は妥当でしょうか。「① 月はきれいだ」を「③ 彼女はきれいだ」に変えてみます。とたんに主観的なニュアンスが加わり、一般論とは言えなくなるはずです。また「④ 月はきれいだった」にした場合、観察に基づいた文と感じるでしょう。

つまり、助詞「は」のついた主題に対して、一般論を述べているのは、①のみだということです。③の場合、主観的な視点での叙述ですから、一般論ではありません。④の場合、観察に基づいた叙述のニュアンスがあって、主語に対する説明が妥当してしまいます。

都合のよい例文をもとに一般化しても、他の事例に妥当しなくては説得力がありません。一般化、標準化の失敗事例です。原沢は[主題というのは、その文のなかで話者が特に話題の中心として聞き手に伝えたいものです](p.38)と説明しています。これもヘンです。

「② 月がきれいだ」という例文のなかで、「話者が特に話題の中心として聞き手に伝えたいもの」は何でしょうか。「月」と答えるはずです。それ以外の答えは見つかりそうにありません。しかし原沢は、②の例文には主題がないと説明するのです。

業界でどういう説明が通用するのかはわかりませんが、一般人には通じません。現役のビジネスリーダーの人たちと話したときにも、説明になってませんねという反応以外ありませんでした。日本語文法学界の説明・解説は、相手にされないのです。

          

3 3つの問題点

例文をめぐって、通説的な説明が通用しないのは、(1) 主題の概念が明確になっていないため、(2) 主体の扱いが妥当でないため、(3)「は/が」の違いの説明がズレているため…でしょう。基礎概念がおかしければ、具体的な例文の解説もおかしくなります。

では、① 月はきれいだ」と「② 月がきれいだ」の例文解説は、何が問題だったのか確認しておきましょう。まず①②ともに文の主体は「月」です。「きれいだ」といわれている対象はともに「月」ですから、「月」と「きれいだ」の関係性が問われるはずです。

①の「月」には「は」が接続し、対象となる「月」を特定し、限定しています。助詞「は」の機能は「特定し、限定する」ことです。①の例文では、月に限っての記述になります。月を特定することは可能ですし、これに限定して言及することも可能です。

②の「月」には「が」が接続し、対象となる「月」を選び出して決定しています。助詞「が」の機能は、選択肢の中から「選出し、決定する」ことです。②の例文では、いろいろあるものの中から月を選んで、焦点を当てています。筆者が選択し決定したものです。

2つの例文の違いは、助詞「は」と「が」の機能の違いといえます。片方が主題で、もう片方が主語だという区分は無意味です。例文を見ると、同じ文末に対してともに主体になっています。主体とされる対象が、どんな存在として扱われているかが問題なのです。

「は」の機能を反映させた説明ならば「月を特定し月に限定して言うと・きれいだ」になるでしょう。「が」の機能を反映させた説明ならば「選択肢の中から選び出した月について言うと・きれいだ」になります。2つの例文は対象となる「月」の扱いが違うのです。

冒頭の3つの問題にコメントをつけておきましょう。(1)日本語文法の主題の概念は幻想にすぎず、(2)日本語文法には、主体を重視した体系が不可欠であり、(3)助詞「は/が」の相違は、対象の存在をどう捉えるかという機能の違いである…となります。

      

4 助詞「は/が」の機能の違い

日本語では、主体を記述するときに原則として「は/が」が接続されます。「は/が」が接続したら主体を表す…というわけではありません。助詞「は/が」は主体である可能性を示す目印になります。あくまでも「は/が」の中心的役割は、対象の扱いの問題です。

主体となる言葉を特定して限定して言うならば「は」がつきますし、選択して決定して言うのなら「が」がつきます。主体との相性が良いことは確かです。対象の扱いに関して、「は」と「が」では対照的な機能をもちますから、両者が重要なペアになっています。

「は」は特定する機能と限定する機能があるため、対象とされたもの以外を考慮しません。そのため絶対的なニュアンスがあります。一方、「が」は選択肢から選んで決定するものです。他との比較が前提になりますので、相対的なニュアンスがあります。

さらに「は」は他を排除して言及する点で、対象そのものに対する絶対性を持ち、客観的なニュアンスをもちます。この点、「が」は選択する過程が入るため、主観的なニュアンスが感じられるのです。このように「は/が」は対照的な機能をもちます。

「は/が」について、以上を簡単にまとめておきましょう。
【は】特定し、限定する機能をもつ:その結果、絶対的で客観的なニュアンスをもつ
【が】選択し、決定する機能をもつ:その結果、相対的で主観的なニュアンスをもつ

      

5 「が:主格」「は:主題」という幻想

主体・主格を表すのが「が」、主題を表すのが「は」であるというのは幻想です。主体を表すことばを主格とか主格補語と呼び、主語でないという言い方もありますが、どうでもよいことです。具体的に「は」「が」と関連させてみれば、おかしなことが出てきます。

「彼女はピアノが上手です」の文末「上手です」の主体はどうでしょうか。「誰」に該当する人間が主体になることが予想されます。この例文での主体は「彼女(は)」になるはずです。「が」接続ならば主体(主格)になる…などという1対1対応にはなりません。

「ピアノは彼女が上手です」ならば、どうでしょうか。「上手です」の主体は「彼女(が)」です。今度は「は」接続が主体になりません。「は/が」は先にあげた機能を付加するだけであって、主体とか主題と関連づけるのはおかしなことです。

「彼女はピアノが上手です」の場合、「彼女に限っていうならば、いろいろできるけれども、ピアノが上手です」といったニュアンスになります。抽象的に、主題が「は」接続、主格補語(主体・主語)が「が」接続といった公式が成立するわけではありません。

「ピアノは彼女が上手です」の場合も、同じように文意が確認できます。「ピアノに限っていうならば、あれやこれやの人の中でも、彼女が上手です」というニュアンスになるでしょう。文の意味に「は」と「が」の機能が反映しているということにつきています。

助詞の接続を、主題や主語といった上位の抽象概念と1対1対応にすることは、読み書きの感覚とズレたものになるのです。「は」接続なら「彼女について言えば」「ピアノについて言えば」と考えることもできるでしょうが、しかしポイントがズレています。

助詞「は」の機能として特定性、限定性があるということにすぎません。助詞「は」がつけば主題になる、主題とは助詞「は」のついた言葉であるという1対1対応を成立させるには、それにふさわしい主題の概念を示す必要があります。それは無理なことです。

      

6 使えない主題概念

通説にも、主題がどういう概念であるかの説明はあります。しかし、よくわかりません。先にふれた原沢伊都夫『日本人のための日本語文法入門』での定義は[主題というのは、その文のなかで話者が特に話題の中心として聞き手に伝えたいもの](p.38)でした。

抽象的な定義ですし明確とは言えません。実際の例文にあてはめて使いこなすことは、ほとんど無理でしょう。「聞き手に伝えたい」という主観性の評価が不明確です。どういう形式ならば、「聞き手に伝えたい」と言えるのかがわからなくては使えません。

主題の概念は、(1)「~について言えば」を表す内容であり、(2)[その文のなかで話者が特に話題の中心として聞き手に伝えたいもの]であり、(3)「~は」が接続するもの…となるのでしょうか。しかし(3)の「~は」接続以外は、あまり使いようのないモノです。

たとえば「明日の会議ですが、中止にします」という例文について、通説によれば、主題がないことになるのでしょう。しかしこの文を読んだ人に、主題は何かと問えば、どうでしょうか。ほとんどの人が「明日の会議」が主題だと言うでしょう。それが自然です。

あるいは「彼のご両親に関して、詳細はお聞きしていません」という例文の主題はどうなるでしょうか。ごく普通の読者に聞いてみれば、「彼のご両親」と答えるはずです。しかし通説の考え方に従えば、主題は「は」接続の「詳細は」になるのでしょう。

主題という概念を文法で使うのであれば、明確で簡潔な定義が必要です。それに加えて、判別する検証方法が示されていることが必要になります。これらがない場合、一般用語として使われる主題の概念に従って、感覚的に使われることになります。

主題を判別する検証方法が、「は」接続との1対1対応のままでは、これまで見てきたように、読み書きをする側の感覚と違いすぎるのです。現在の通説が示す主題の概念を、日本語の文法として採用するのは無理があります。主題は使えない概念というべきです。

      

7 「主語-述語」関係が文の本質

主題や主語を、もっと大きな視点から見ておくのがよいかもしれません。何がポイントとなるのか、考える必要があるでしょう。渡部昇一は『学問こそが教養である』に所収の対談で、主語について気楽に語っています。大切なのは何かがわかるはずです。

▼「主語-述語」の関係こそが、文の本質であるということは、プラトンの『クラテュロス』以来の一番の基本でね。だから、何について何を叙述するかということなんですね、まずつかんでおくことは。
話そうとすれば、まず「何について話そうとするか」がわからないといけないわけで、それから「何を話すか」ですね。これだけ押えておけば、表現形式が日本語と英語で多少違っても、大筋においてはなんとか通るんです。 p.164 『学問こそが教養である』

ここで渡部が「主語」というのは「何について」とか「何について話そうとするか」であり、「述語」とは「何を叙述するか」「何を話すか」ということです。渡部は[表現形式が日本語と英語で多少違っても、大筋においては]という前提で語っています。

ここでいう「何について」とか「何について話そうとするか」を、日本語文法の通説の考えにあてはめてみると、「主題」の概念に似たものであることに気がつくでしょう。主語ではない、主題だと主張している概念は、[大筋において]主語の概念に吸収されます。

日本語文法でいう主題の概念は、主語の概念と[大筋において]、そう違いがないのです。違いを示すために、「は」「が」を持ち出したにすぎません。大筋において同じもののうち、「は」接続を主題、「が」接続を主格補語に区分して、主題を重視したのです。

渡部のいう述語は「何を叙述するか」「何を話すか」でした。主題についての「解説(説明)」のパートということも可能でしょう。しかし大きく違う点があります。主題と解説の関係は、論理関係を必須とせずに、関連性だけで結ばれた関係であるということです。

「読書会は13時から行います」の「読書会は」を主題とするならば、「13時から行います」は関連性をもちますから、主題に対する解説といえます。主題の概念が明確にならなくても、「は」接続と1対1対応させてしまえば、判別は明確になるのです。

さらに日本語の場合、述語が欧米言語と大きく違いますから、主題の概念を導入して「解説」とセットにすることは、一石二鳥だったでしょう。日本語は欧米流の論理的な言語ではないが、文構造にはルールがあると言えなくもないなあと、思ったかもしれません。

          

8 組む相手が問題:「述語」なのか「解説」なのか

渡部昇一は『英語教育大論争』で、日本の英語教育の意義を語っています。[日本の国語教育は、国語の文学的教育であるにすぎず、国語の言語学的教育は英語の時間に最も徹底的に行われているのである](p.36 『英語教育大論争』文春文庫版)との主張です。

渡部は、国語の時間に書かされる作文の評価が[文学的視点から行われる]と指摘します。これに反して、[英文和訳の時間において、和訳の日本語は、一にも二にも言語学的な批判にさらされる]と指摘しているのです。具体的には、以下の点が問われます。

▼主題はどれであるか。それはしかるべき述語によって叙述されているか。言語に内在する論理性はそこなわれていないか、などなどである。 pp..36-37 『英語教育大論争』文春文庫版

ここでは「主題」と「述語」がセットになっていて、両者の関係が問われています。[言語に内在する論理性]が問われているのです。渡部は『学問こそが教養である』で「何について」とか「何について話そうとするか」を「主語」と呼んでいました。

それに対して『英語教育大論争』では、「何について」とか「何について話そうとするか」を「主題」と記したようです。一般向けの文章では、主語と主題を厳密に分けていません。それよりも大切なことがあります。それが[言語に内在する論理性]です。

渡部は、主語・主題の違いに神経質になるかわりに、述語を組み合わせる相手方にしています。問うているのは、[それはしかるべき述語によって叙述されているか]です。「しかるべき述語」とは[言語に内在する論理性]をもつ述語ということになります。

「主語-述語」が論理的対応をしていること、「主題-述語」が論理的対応をしていることが問題なのです。主語と主題の概念の違いよりも、述語との論理的な対応関係が重要になります。論理的な関係がない場合、文法的ルールとは言いにくいということです。

渡部が、主語と主題を混在して言ったとしても、対応する相手側が述語である限り、問題になりません。[これだけ押えておけば、表現形式が日本語と英語で多少違っても、大筋においてはなんとか通る](p.164 『学問こそが教養である』)のです。

日本語文法における主題の概念の定義は、なんとなくわかる程度の概念でした。これでは使えません。主語に類似した概念である主題の後に置かれた部分を、解説(説明)としました。これで論理関係が問われなくなります。同時に文法ルールではなくなったのです。

           

9 「主題-解説」と文法的構造

すでにこの連載で見たところですが、主題と解説の関係は、英語でも使われています。上田明子は『英語の発想』で、主題に当たるシーム(theme)と解説に当たるリーム(rheme)を、英文を書くときの指針として使っていました。これは文法ルールではありません。

上田は、[混乱なく文章の構造を述べていくために、シーム(theme)とリーム(rheme)という、文法の主語+述部とは別の2分法を立てます。談話分析の手法として広く取り入れられているものです](p.97)と記しています。文法とは別なのです。

▼主語・述部の別と、シーム・リームの別という2つの区分をつくることで、文法的に文を扱っているのか(主語・述部)、あるいは情報の流れを扱っているのか(シーム・リーム)の区別ができます。 p.101 『英語の発想』

日本語の場合、文末に置かれた言葉は、主体の叙述になっています。主体の叙述が文末という指定席に置かれるため、その相手となる主体を見つけるのは容易です。あえて記さなくても、文脈から容易に推定できる主体であるならば、記述する必要はありません。

河野六郎は、日本語のことを単肢言語だと言いました(「日本語(特質)」『日本列島の言語』)。これは主体の記述が必須でないということです。言うまでもなく、主体が必要ないということではありません。記述がなくても、主体がわかるということです。

日本語で使われる「主題-解説」は、「主語-述語」にとって代わるべき存在ではありません。「主題-解説」は文法構造ではないのです。述語の概念が欧米語とずいぶん違いますから、日本語で「主語-述語」をそのまま取り入れるのは無理がありました。

益岡隆志は主語について、[主語は述語と相互依存の関係にあって、その意味で、対等な関係にあるものと考えられる](『岩波講座 言語の科学5』p.46)と説明しています。述語とは「文の末尾に現れる成分」(p.44)です。益岡は主語否定論の立場に立ちます。

「相互依存」とか「対等な関係」というのは、どう認定すべきか曖昧です。渡部昇一が言うように、「何について何を叙述するか」ということ、「何について話そうとするか」+「何を話すか」の構造があれば、相互依存する対等な関係だと考えることもできます。

日本語には、文末に「何を叙述するか」の記述がありますから、それに対する「何について」という主体が見いだされるならば、相互依存する対等な関係と言ってよいのです。大切なことは、それによって役立つルールになるかどうかということでしょう。

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■現代の文章 第26回 基礎概念の通説的見解

 

1 通説的な立場の確認が必要

『岩波講座言語の科学 5 文法』の「2 文法の基礎概念Ⅰ」は、益岡隆志が書いたものです。基礎概念が簡潔にきちんと書かれていて、とても優れていると思いました。読むと、内容がわかります。明確でない文章では、何を言っているのかわかりません。

通説的な日本語文法の基礎概念をここで確認することができます。ただし現在の通説とはやや違いがありそうです。基礎概念を簡潔にわかりやすく記述した文献が、他にもあるかもしれませんが、少なくとも益岡の解説を読むと、やっとわかったという気がしたした。

基礎概念をひとまず確認してから、もっと新しい入門書を見ておいたほうが良いと思います。原沢伊都夫『日本人のための日本語文法入門』が標準的な立場に立っているように見えました。詰めが甘い点もありますが、わかりやすくまとまっていると思います。

この本を使って、基礎概念について通説の立場を確認していきましょう。原沢の説明の方が、現在の通説に近いはずですが、解説を誤読しないようにするために、益岡の解説をふまえておきたいと思いました。原沢の本は、例文とその解説がある点でも便利です。

     

2 益岡隆志による基礎概念の確認

原沢の『日本人のための日本語文法入門』で特徴的といえるのは、最初の章で学校文法を否定しながら、述語の一番大切な機能を説明していることでしょう。いままでにも何度かふれたすぐれた例文が示されていて、その例文を使って、基礎概念を説明しています。

ただ、すこし注意が必要です。基礎概念をまとめて解説していないため、基礎概念の全体像が見えにくい点がありますし、また説明の厳格性にも不安があります。この点、『岩波講座言語の科学 5 文法』「2 文法の基礎概念Ⅰ」の益岡隆志による解説は明確です。

まず益岡の基礎概念を確認して、それとの対象で『日本人のための日本語文法入門』の説明を読みたいと思います。益岡が示す基礎概念は5つです。述語を中心的な成分だとしていますが、その理由が直接的に説明されていませんので、その点を確認しておきます。

益岡があげた成分は「述語成分」以外、4つです。このうち「主題」を別扱いしていますので、「述語修飾成分」「補足成分」「状況成分」が問題になります。これらのうち「述語修飾成分」という名称が象徴的です。状況成分は「述語修飾成分の一種」とあります。

残りの「補足成分」は[述語が表す事態に関する情報を補う役割を担っている]概念とのことです。述語が中心で、それを補うということは、修飾しているという意味になります。この点で、大きく見ると「述語修飾成分」の一種ともいうことになるでしょう。

益岡は述語を中心的な成分としています。この述語に説明を加えるための成分を取り上げて、それらを「述語修飾成分」「補足成分」「状況成分」の3つに分けました。さらに「主題成分」があるとしています。以上が、日本語文法の基礎概念ということでした。

      

3 通説の立場を知るために便利な本

以上をふまえて、原沢伊都夫『日本人のための日本語文法入門』における基礎概念を見ていきましょう。原沢も述語を中心的な成分としています。[文の要は述語であり、その述語を中心にいくつかの成分が並んでいると考える](p.17)と説明しています。

さらに益岡が[主語否定論の立場に立つ](p.46 『岩波講座言語の科学 5 文法』)のと同じ立場です。[日本語文法では学校文法のように主語を特別扱いしません。いくつかある成分の中の一つであるという考え](p.17)ですから、主語は基礎概念になりません。

ここで主語を特別扱いしない点を強調したいためなのか、主語成分を特別な概念とせずに[皆対等な関係で述語と結ばれていると考えるのです](p.17)とあります。「対等な関係」というのは、曖昧で不明確な説明です。こうした詰めの甘さがあります。

「日本語文法」と「学校文法」を安直に対比させている点も、益岡の解説を基本にすえないと危ないと感じさせることになりました。さらに[主述関係が文の基本的な構造であるとする]考えを[大きな間違いなんですね](p.17)という書き方をしています。

すぐれた学者の本として『日本人のための日本語文法入門』を選んだのではありません。通説を知るために選んだものです。通説に近い立場で書かれている点に価値があります。益岡の基礎概念の考えには、通説との違いがありますから、その確認が必要です。

      

4 「パーツ」が「ボルト」で[述語と結ばれ]る関係

原沢は「母が台所で料理を作る」という例文をあげています。文中の成分は、「母が」「台所で」「料理を」の三つが、述語である「作る」と[皆対等な関係で述語と結ばれている](p.17)とのことです。対等だったとしたら、同じ成分になるのでしょうか。

そう簡単ではないようです。まず主語について、「意味的に重要な役割を担っていることは否定しません」が、それは[意味的な重要性であって、文法的な関係においては、主語だけを他の成分と異なる特別な存在としては認めていないんです](p.18)とのこと。

どうやら「意味的な重要性」と「文法的な関係」は別なようです。[主従関係では、日本語の文法体系を正しく説明することはできないんです](p.18)とあります。「文法的な関係」とは「文法体系」を構成するものであって、意味的な価値とは無縁のようです。

そうなると何をもって日本語では、文法的な関係、文法体系を形作っているのでしょうか。原沢はここで「パーツ」という概念を提示します。見出しでいきなり使い、その意味を説明していませんので、この概念は明確ではありません。しかし例文が示されます。

「ティジュカでジョアキンがフェジョンをシキンニョと食べた」です。述語は「食べた」と説明されています。なぜ述語になるのかは、益岡の説明と同じでしょう。述語の前にある成分が述語に説明を加えるからです。そのとき結びつき方を原沢は説明します。

例文にある「で」「が」「を」「と」を取り上げて、これが「格助詞」であると確認した上で、[格助詞というボルトによって、それぞれの成分は述語と結ばれ、そのボルト(格助詞)の種類によって、述語との関係が決定される](p.21)と説明しています。

どうやら「ボルト」で[述語と結ばれ]るのが「パーツ」だということのようです。「パーツ」も「ボルト」同様、説明のための一般的な用語であって、基礎概念とは関係ないのでしょう。ただし述語との結びつき方が示されていますから、便利な用語です。

ティジュカで (場所) -- 食べた
ジョアキンが (主体) -- 食べた
フェジョンを (対象) -- 食べた
シキンニョと (相手) -- 食べた

意味で言うならば、「場所・主体・対象・相手」ですが、こちらは意味的なものですから、ひとまずおいておきましょう。大切なのは、格助詞が接続された各成分が「食べた」という述語とつながっているということです。これが文法的な関係でしょう。

これらが[皆対等な関係で述語と結ばれている](p.17)ということです。原沢がそのときあげていた例文は「母が台所で料理を作る」でした。これは上記と同じ関係になります。格助詞のついた各成分が同じように、以下のように述語と結ばれているのです。

母が  (主体) -- 作る
台所で (場所) -- 作る
料理を (対象) -- 作る

原沢の説明は、ここまではわかりました。しかし益岡の説明を読んだ後ならば、この段階では、原沢の言う「文法体系」にはなっていないということがわかるはずです。益岡のいう「述語修飾成分」「補足成分」「状況成分」とどう違うのか、確認が必要になります。

      

5 必須成分と随意成分

問題となるのは「母が台所で料理を作る」のうち、「母が」「台所で」「料理を」を益岡の言う「補足成分」と呼んでよいのかどうか。さらに「ティジュカでジョアキンがフェジョンをシキンニョと食べた」の「ティジュカで」が「状況成分」になるのかどうかです。

この点、原沢の考えはおそらく通説の考えになるのでしょうが、益岡の説明と少し違っています。原沢は[それぞれの成分は述語との関係において欠くことのできない必須成分とそうではない随意成分とに分かれます](p.22)と記しているのです。

原沢による区分の仕方についての説明の前に、区分のされ方を具体例で見ましょう。「ティジュカでジョアキンがフェジョンをシキンニョと食べた」では、必須成分が「ジョアキン(が)」「フェジョン(を)」、随意成分が「ティジュカ(で)」「シキンニョ(と)」です。

これを見ると、益岡の基礎概念が崩れているのがわかるでしょう。益岡のいう「状況成分」がなくなっています。「状況成分」+「補足成分」を原沢は「パーツ」と呼んだようです。このパーツを[絶対に必要なパーツ]と、そうでないパーツに分けました。

パーツを2つに分けるときに、状況成分と補足成分に分かるのなら、益岡の基礎概念と同じですが、それならばあえてパーツにまとめる必要はありません。必須成分と随意成分の概念がどう違うのか、これをどういう方法で区分するのかが問題です。

       

6 対等な関係のパーツを二分する方法

原沢は[皆対等な関係で述語と結ばれている](p.17)と書いていたにもかかわらず、[絶対に必要なパーツ]と、そうでないパーツに分けようとしています。もし「皆対等な関係」であるならば、絶対必要とたいして必要でないパーツに分けられるのでしょうか。

必須成分と随意成分の概念は、どう違うのか、区分方法はどうなるのか、よほど気をつけてみておかなくてはいけません。原沢は例文「ティジュカでジョアキンがフェジョンをシキンニョと食べた」を使って説明しています。まずは、区分法を見ていきましょう。

原沢は、例文の述語である「食べた」の前の「ティジュカで」「ジョアキンが」「フェジョンを」「シキンニョと」の4つがパーツを削除していく方法を採ります。[削除することができない成分が必須成分、削除しても文として成り立つ成分が随意成分]です。

たとえば、[「ティジュカで」を削除してみます](p.22)。[「ティジュカで」という成分がなくても、文として問題があるとは感じられませんね](p.23)と記しています。こうした判定から[必須成分ではなく、随意成分と考えることができます](p.23)とのこと。

このようにパーツを削除する方法で区分しています。[「ジョアキンが」を削除して]みると、[ちょっと意味が不明ですね]、[「ジョアキンが」は削除することはできないようです]。したがって[「ジョアキンが」は必須成分](p.23)になるのです。

「フェジョンを」も同様に削除すると、[これもよくわかりませんね](p.23)ということになるので、「フェジョンを」は必須成分です。一方、「シキンニョと」を削除しても[特に違和感は感じません]ので、[「シキンニョと」は随意成分となります」。

削除すると意味不明に感じたり、違和感を感じさせる成分の場合、不可欠な成分だと判断されて必須成分と判定されます。一方、削除しても意味不明にならず、違和感もなければ随意成分に判定されるということです。では、こうした判定法は妥当なのでしょうか。

       

7 判定方法の危うさ

必須成分と随意成分を区分する原沢の判定法が妥当かどうかは、別の例文でも妥当な区分ができるかどうかでひとまず分かるはずです。例文が「マックで私がハンバーガーをシキンニョと食べた」になった場合、原沢の方法を使って区分するとどうなるでしょうか。

原沢の言うボルトとなる格助詞は、先の原沢の例文と同じく「で・が・を・と」になっています。述語は同じく「食べた」です。「マックで」「私が」「ハンバーガーを」「シキンニョと」の4つの成分がどう判定されるかが問題となります。

「マックで私がハンバーガーをシキンニョと食べた」から、「マックで」を削除してみましょう。「私がハンバーガーをシキンニョと食べた」となります。これならば問題ないはずです。したがって「マックで」は随意成分になると判断してよいでしょう。

つぎに「私が」を削除すると、「マックでハンバーガーをシキンニョと食べた」になります。これは、どうでしょうか。違和感は感じられませんし、意味も不明ではありません。主体の記述がない場合、主体は「私」になりますから、文として問題はなさそうです。

以上の判断に従えば、「私が」は随意成分になります。しかし原沢は、違った判断をしていたはずです。原沢の例文は「ティジュカでジョアキンがフェジョンをシキンニョと食べた」でした。「ジョアキンが」をカットしたとき、どう書いていたでしょうか。

原沢は[ちょっと意味が不明ですね]とか[一緒に食べたのは誰なんだろうと思ってしまいます](p.23)と書いています。普通の日本人なら「ティジュカでフェジョンをシキンニョと食べた」とあれば、主体は「私は」だと判定します。違和感など感じないでしょう。

日本語は単肢言語ですから、主体を記述するのは必須ではありません。主体がわかりきっている場合、かえって記述しないのがふつうでしょう。主体を記述しない文の場合、「私は」が主体になるのがルールです。原沢の判定方法はあやういところがあります。

       

8 文法的な関係で区分すべき

例文「マックで私がハンバーガーをシキンニョと食べた」で絶対に必要なパーツはどれでしょうか。一律に決まるのかどうか、わかりませんが、「私がシキンニョと食べた」が一番中核になりそうです。「私だよ、シキンニョと食べたのは…」という感じでしょう。

あえて「私が」と記述をしていますから、「私」の強調になっています。さらに「食べた」だけでなくて、「シキンニョ」と一緒に「食べた」のです。そのため、この例文では単に「食べた」のとは違った行為になっています。以上は意味の面から見たものです。

原沢は「意味的な重要性」でなく「文法的な関係」を重視していました(p.18)。しかし主体をめぐるルールは、たんなる意味的な重要性の問題なのでしょうか。主体を記述しなくても文が成り立つ単肢言語である日本語では、主体に特別な地位を与えています。

主体がわかりきっている場合に、あえて主体を記述すれば主体の強調になるのです。また主体の記述がなく、文末が「する・した」の意味ならば、主体は「私」だと判断されます。こうしたルールは、意味的な重要性という以上に、文法的なルールというべきです。

原沢は「意味的な重要性」でなく「文法的な関係」を重視したはずですが、成分の判別を意味に頼っています。意味を根拠にすると、判定が曖昧になりがちです。この点、益岡隆志が「補足成分」と「状況成分」を分けたときの区分法のほうが明確でしょう。

例文でいうと「ティジュカで」や「マックで」が状況成分にあたります。状況成分の要件は、「述語修飾成分」であることを前提として、①文頭に表れていること、②出来事が生起した時と場所を表すものでした。要件を明示したほうが、区分が明確になります。

益岡の成分の分類は、語順が変わると成分が変わってしまう点で、結果の妥当性に問題がありました。しかし、①の要件を削除すれば、「時間・空間」を内容とする成分となります。絶対必要な必須成分と、それ以外の「付随成分」との区分よりはましでしょう。

        

9 【主題】+【解説:コト+ムードの表現】

原沢は格助詞というボルトで、述語とパーツを結びつけるのが日本語文の基本構造だとしています。さらにパーツと呼んだ成分を、必要不可欠な必須成分とそれ以外の成分である随意成分とに区分しました。このあたりを、原沢のまとめで確認しておきます。

▼日本語文の基本構造は述語を中心にいくつかの成分から構成され、それらの成分は格助詞によって結ばれています。格成分(格助詞によって述語と結ばれた成分)は述語との関係から必須成分と随意成分に分かれ、述語と必須成分との組み合わせは文型と呼ばれます。 p.50 『日本人のための日本語文法入門』

原沢が必須成分と随意成分に区分する基準は、文型をつくるのに必須の成分とそれ以外の成分ということになります。ただし原沢は文型とは別に、「コト」という概念を提示し、[コトは文の言語事実を形成しますが、文としてはまだ未完成](p.50)だと言うのです。

未完成であるというのは、[コトをどのように考え、どのように聞き手に伝えるのかというムードの表現が必要になるからです](p.50)とのこと。原沢は本に図式化して、説明しています(p.51)。以下が、原沢の本にあるものをもとに簡略化したものです。

▼【主題:~は】+【コト:「成分」…「成分」…→[述語]】+【ムードの表現】

「ムードの表現」とは[コトの中から主題となる成分を選び、提示する](p.50)だけでなく、それ以外の表現形式もあるのです。いずれの場合も、原則として「ムードの表現」が[基本的に述語の最後につく](p.144)形式をとります。

[述語の最後につく]というのは、【述語+「ムードの表現」】の形式になるということです。原沢は例文をあげています。[1) 今日の午後、台風が上陸する・そうだ][2) 駅まで私の車で送り・ましょうか]の「そうだ」「ましょうか」がムードの表現です。

ここでポイントとなるのは、先の例文の述語が「送り」と「上陸する」とされることでしょう。コトの中に述語はあって、そのあとに「ムードの表現」がなされるということです。おそらくこれが通説的見解なのでしょう。述語はセンテンスの文末ではありません。

「~は」によって主題が提示されるとき、[残った部分は主題について説明する部分となり、解説と呼ばれます]とのことです。【主題】+【解説】の構造を採用しています。ただ、これだけでは、ややわかりにくいので、これも以下に図式化しておきます。

▼【主題:~は】+【解説:「コト」+「ムードの表現」】
・【主題:~は】+【解説:「コト」】
・【「コト」+「ムードの表現」】
・【「コト」】

主題がある文と主題のない文があり、ムードの表現がある文とない文があるということです。[コトは文の言語事実を形成しますが、文としてはまだ未完成][ムードの表現が必要になる](p.50)こともある、ということでしょう。コトだけの文もあるのです。

原沢のあげた例文で言えば、「今日の午後、台風が上陸するそうだ」は「今日の午後、台風が上陸する」+「そうだ」となって、【「コト」+「ムードの表現」】になります。「今日の午後、台風が上陸する」なら【「コト」】ということです。

「~は」がつくと主題化するとのことですので、「今日の午後には、台風が上陸するそうだ」ならば、「今日の午後には」+「台風が上陸する」+「そうだ」という【主題:~は】+【解説:「コト」+「ムードの表現」】となるはずです。

これが「今日の午後には、台風が上陸する」ならば、「今日の午後には」+「台風が上陸する」となって、【主題:~は】+【解説:「コト」】になるでしょう。原沢は明示していませんが、こうした観点で言うと、日本語の文構造は4種類になるということです。

▼【主題】+【コト+ムードの表現】:「今日の午後には、台風が上陸するそうだ」
・【主題】+【コト】       :「今日の午後には、台風が上陸する」
・【コト+ムードの表現】     :「台風が上陸するそうだ」
・【コト】            :「台風が上陸する」

       

10 通説的な立場の確認

原沢の説明を見ると、通説的な考えがかなり見えてきます。主語を特別扱いしないで、述語の前に並列的にキーワードを並べた構造を考えておいて、それらを必須成分と付随成分に分け、「必須成分+述語」で文型ができると考えるのです。

こうして述語と結びつくキーワードの体系を「コト」と扱い、それらに主題が加わったり、「ムードの表現」が加わることになります。ここでムードというのは、筆者の気持ち・心的態度を表すものです。益岡隆志はモダリティという言い方をしていました。

センテンスの文末は、多くの場合、「述語+モダリティ」か「述語」が来るということです。ムード・モダリティとは別に、述語にはいくつかの形態をとることになります。それが「ボイス」「アスペクト」「テンス」です。ここは原沢も益岡も共通しています。

益岡の『岩波講座言語の科学 5 文法』のボイスの項目の例文をみれば、わかると思います(p.55)。「話す⇔話せる」「思う⇔思われる」「飲む⇔飲みたい」「読む⇔読みやすい」「送った⇔送ってもらった」「置いた⇔置いてあった」。能動態と受動態です。

アスペクトについては、原沢が示した例がわかりやすいと思います。(『日本人のための日本語文法入門』 pp..108-109)。[動きのいろいろな段階を表す形式]です。「描くところだ」「描きはじめる」「描いている」「描きおわる」「描いてある」。

テンスについて原沢は[話そうとすることがらが過去に起きたことか、現在起きていることか、これから起きることかといったことを示す文法手段]と説明しています(p.128)。「食べる⇔食べた」「美しい⇔美しかった」「学生だ⇔学生だった」などの変化です。

これらの組合せを見ておきましょう。「描き終わった」ならば、【ボイス:能動態】【アスペクト:終了】【テンス:過去】となり、「描いてもらうところだ」ならば、【ボイス:受動態】【アスペクト:動作の直前】【テンス:現在】となりそうです。

ボイス・アスペクト・テンスは述語に関する基礎概念であり、「コト」内部の表現形態といえます。一方、「コト」の枠外における基礎概念には、主題と心的な態度を示すムード(モダリティ)があるということです。通説的な立場をひとまず、こう理解しておきます。

         

11 通説的な立場の解説は貴重

すこし回り道をして確認してみました。一般の人たちや、ビジネスリーダーの人たちが、日本語文法の通説的な立場を知っているとはとても思えません。私だけではないと思います。基礎概念となる骨格の部分は、シンプルであるべきですし、実際その通りでした。

「~は」を機械的に主題の区分として使い、述語をボイス・アスペクト・テンスの項目ごとに分解している点、通常の読み書きの立場とは違うでしょう。そのあとにムード・モダリティを加えて、センテンスの文末を構想する発想も違和感があって賛同できません。

各項目につけられた例文の説明にも違和感を持ちました。例によって、行ったり来たりしながら、これらの例文についての説明も見ていきたいと思っています。河野六郎の「日本語(特質)」(『日本列島の言語』)がどう通説と違うのかの確認も大切でしょう。

原沢伊都夫は『日本人のための日本語文法入門』で例文「月はきれいだ」「月がきれいだ」をあげて、その違いについて[「~は」は主題を表し、「~が」は主語を表しました。両者の文法的な役割は徹底的に違ってましたね](p.150)と記していました。

原沢のこの入門書は、ここで終わらずに、個々の例文について説明しています。通説的な立場での解説は貴重です。これらの[状況を思い浮かべていただきたいと思います](p.151)とあります。これを宿題にしましょうか。今回は、ここで終わりにしておきます。

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■現代の文章 第25回 日本語文法の基礎概念について

 

1 使えない日本語の文法書

先日まで講座のテキストを作っていました。講義では、リーダーの人たちが部下の文章をチェックするときに、どうするのがよいのかという話をします。日本語の場合、文法書がほとんど役に立ちません。文法の話が長く続くと、聞く気がなくなるはずです。

受講される方たちは部下をもったリーダーですから、専門をもったビジネス人です。あるいはリーダーになるべき人たちです。レベルの低い方々ではありません。それどころか一般に言えば、かなり優秀な方々です。そういう人たちが文法を頼りにしていません。

以前、学校の先生みたいな人が、ビジネス人の場合、文法の話を聞きたがらないと話したのに対して、出来がよくないからじゃないのかといった反応をしたことがありました。ナンセンスな話です。あなたレベルじゃ、相手にされませんよ、と言いたくなりました。

仕事のできる優秀な人たちが、あるレベルに達すると、日本語について考える必要性が出てきます。ビジネスの状況を把握するときに文章で記しますから、記述は重要です。記述なしで、ビデオメッセージや、音声録音で済ませる訳には行きません。

迅速な事務処理をするには、文章になっていたほうが良いのです。音声や映像では、効率的な処理ができませんから、文章について考える必要がでてきます。リーダーだけではなくて、部下である人たちも同じです。読み書きが出来なくては困ります。

いずれにしても、仕事のできる人達なら、文章が書けなくてはいけない、読めなくてはいけないのはわかっています。必要不可欠なことです。そういうときに、日本語の文法が使われないのですから、残念というべきでしょう。

とはいえ、使う価値があるかどうかで考えたならば、とても使える代物じゃないということになります。それが本音でしょう。このあたり、何とかしたいという思いは、私にもあります。そんなこともあって日本語文法講座などという連載を始めてみたのです。

しかし現在の日本語文法に関して、外の世界の人間にとって、学説の状況だけでも、よくわかりません。ここに書かれていることが通説なのか、独自説なのかはっきりしないことがよくあります。日本語文法はまだ確立していないのかもしれないのです。

実際、留学生と話していると、やはり…ということになります。大学を出て、かなり高い地位の仕事をした人が、留学してくることがあるのです。自国語以外に、英語をやり日本語をやった人たちですから、どう感じるのか、興味があります。

彼らに、日本語の場合、まだ文法が確立していないかもしれないと言うと、たいてい英語とは違う、日本語文法はきちんと整備されていないと思うと答えるのです。ごく少数のサンプルですから、そんな感じがあるというのにすぎません。

学説の混乱が収斂したならば、これが通説であり、有力説がこれで、これは少数説ですと言えるはずなのです。当然、通説を学べばよいということになります。日本語の文法の通説的な考えというのは、どうなものか参考となる本をすこし探したのです。

そうやって探した中に、『岩波講座言語の科学 5 文法』という本がありました。この本の「2 文法の基礎概念Ⅰ」という章に基礎的な概念についての解説があります。内容が明確だと思いました。

この説明を確認していけば、最低限の用語の概念や構造について理解できそうです。学説の様子も少しはわかるかもしれません。この章を執筆したのは益岡隆志との記載があります。シリーズの編集委員であり、出版時点で神戸市外国語大学日本語学の先生でした。

この巻の「学習の手引き」を執筆していますから、日本語文法の学者として評価されているのでしょう。さらに言えば、こうしたシリーズ本の場合、自説を強調することよりも、標準的な立場にも考慮しているはずですから、その点で、読む価値はありそうです。

            

2 述語を中心的成分とする根拠

今回、文法なんてやってられないよという人たちに向けて、講義風に書いてみましょうか。内容を砕いたうえで、くだけた言い方で説明していくと、わかったと言ってくれる人がときどき出てきます。それを期待しましょう。こんな感じです。

皆さんの手元には、テキストがないはずですが、心配ありません。例文が示されていますので、それを記しておきます。「先日、北海道で、A山が激しく噴火した」(p.44)、これが例文です。この文の意味が解らない人はいないでしょう。

益岡隆志先生は、この例文を5つに分けています。「先日/北海道で/A山が/激しく/噴火した」…です。これもわかるでしょう。こういう例文があると、抽象概念も、具体的なあてはめができますから便利です。さっそく問いかけがありました。

この例文を見て、[この文の中心的成分はどれであろうか](p.44)というのです。わかりますか? 「北海道で」も気になりますが「A山が」かもしれませんね…。いやいや、違います。そのすぐあとに[その答えは「噴火した」である]と書いてありますから。

苦労して考える必要はなかったのかもしれません。「噴火した」が答でなくては、困るのかもしれないのです。ちょっと意地の悪い言い方かもしれませんが、日本語の文法は強引なところがあります。気をつけないといけないのです。

ここはひとまず、「噴火した」でよいことにしましょう。それよりも、どうして「噴火した」が中心的成分になるのか、解説を見ることの方が先です。以下のように書かれています。丁寧に読んでみてください。意味が分かるでしょうか。

▼「噴火した」という成分が与えられれば、「いつ、どこで、何が」といった成分の存在が予測され、文の大まかな枠組みが決定されるからである。この点は、例えば「先日」という成分が与えられても文の枠組みが決定されないという状況と対照的である。 p.44 『言語の科学 5 文法』

「噴火した」と言われれば、「いつ、どこで、何が」という風に頭が働くからということなのでしょう。[文の中心的な成分](p.44)と言われれば、あえて反対する必要はないかもしれませんが、何だかよくわからないなあという感じは残ります。

ひとまず、その先に行きましょう。益岡先生は、この成分を[述語成分(または、述語 predicate)と呼ぶことにしよう]と書いています。そうなると、述語が中心的成分だということですね。述語が大切なのはたしかでしょう。

このあたりまでの話なら、ビジネス人なら、ああそうですか…という素直な反応をするかもしれません。しかし素直な反応はしても、そう簡単に素直に納得しましたとはならないことが多いのです。きちんと詰めていなかったら、納得してもらえません。

学者がマネジメントの本を書いたときなど、ときどき悲惨なことになります。受け取る側が優秀なら、その人はすぐにシミュレーションをするでしょう。自分の頭で考えてからでないと、納得しません。私も皆さんの真似をしてちょっと考えてみます。

例文が「先日、北海道で、A山が激しく噴火した」です。この文の末尾に置かれた「噴火した」が述語であり、文の中心的成分だということでしたね。それでは、例文を少し変形したらどうなるでしょうか。

「先日、北海道で、激しく噴火したのがA山でした」という例文を作ったとしましょう。この例文はどう分ければいいのか…。「先日/北海道で/激しく/噴火したのが/A山でした」かもしれません。そうだとすると、先ほどと同じく5つに分けられます。

たぶん述語は「A山でした」になるはずです。これが中心的成分だということになるでしょう。なぜなら、述語が中心的な成分になるということだったからです。益岡先生は、述語について以下のように書いています。

▼述語成分を品詞の面からみると、「噴火する」や「出会う」のような動詞の述語、「美しい」や「きれいだ」のような形容詞の述語(本章では、形容詞と形容動詞を区別しないで、形容詞として一括する)、「学生だ」、「文法書である」のような名詞の述語(名詞の述語の場合は、名詞の後ろに「だ」、「である」、または「です」という要素が必要である)という3種類に区別される。 p.44 『言語の科学 5 文法』

ここから考えてみると、「A山」という名詞の後に「でした」がついて述語になったと考えてよいでしょう。では「A山でした」が中心的成分になる根拠はどうなっているでしょうか。「A山でした」とあっても、「いつ、どこで、何が」という風に頭は働きません。

さっきのようには行かないのです。こちらの理解の仕方が間違っていたのかもしれません。どう考えるのが正しかったのでしょうか。こういうときには、具体的に見ていったほうがわかりやすいですね。2つの例文を並べてみます。

(1)「先日、北海道で、A山が激しく噴火した」
(2)「先日、北海道で、激しく噴火したのがA山でした」

例文(1)の場合、「噴火した」が文のキーワードを束ねています。こんな風になっているのがわかりますか。
・先日   噴火した ○
・北海道で 噴火した ○
・A山が  噴火した ○
・激しく  噴火した ○

とてもいい例文です。私が変形させた例文(2)はどうでしょうね…。さっきの例文のように、きれいな束ね方になっていないのです。
・先日     A山でした ▲
・北海道で   A山でした ▲
・激しく    A山でした ▲
・噴火したのが A山でした ○

どうみても「A山でした」が各要素をうまく束ねているとはいえません。ここで束ねていると言えそうなのは「噴火したのが」でしょう。以下をご覧ください。
・先日   噴火したのが… ○
・北海道で 噴火したのが… ○
・A山が  噴火したのが… ○
・激しく  噴火したのが… ○

そうなると、先ほどの益岡先生の言うことがわからなくなってきます。もう一度読み直してみましょう。[「噴火した」という成分が与えられれば、「いつ、どこで、何が」といった成分の存在が予測され、文の大まかな枠組みが決定される]ということでした。

たしかに「噴火した…」によって、「いつ、どこで、何が」といった成分の存在が予測されます。しかし「噴火したのが」という形ですから、これは述語ではありません。ここでは述語の「A山でした」が、何かを予測していることが大切だということでしょう。

そうなると先ほどの説明では、「述語によって文の大枠が決められる」ということがポイントだったと考えるべきでした。述語によって、文の枠組みが決定されるという機能があるから、述語が中心的要素なのだということでしょう。

述語の前に置かれた部分の構造について、述語が大枠を決めているかどうか、それが問題です。そういう作用があるのなら中心的成分になるということでしょう。では、「先日、北海道で、激しく噴火したのがA山でした」というのは、どんな大枠になっていますか。

「A山です」が述語になった場合、その前に来るのは、おそらく「何々なのは…」「何々なのが…」になりそうです。「何々なのが…【A山です】」が来ると予測できます。こういう構造になるはずです。【先日、北海道で、激しく噴火したのが】+【A山でした】。

最初の例文の場合なら、「噴火した」が述語になっていましたから、「いつ、どこで、何が」などが来るだろうと、大枠が予測できます。述語がこうした機能をもつから、中心的成分なのだという風に理解できるでしょう。ひとまず、ここまではわかりました。

        

3 述語・述語修飾成分・補足成分・状況成分

こんなことをやっていると、進むのが遅すぎると感じるかもしれません。私ものろいと思います。それでも、ちょっとしたところで誤解が生じるものです。基礎的な概念ですから、きっちり理解していきましょう。項目もわずかなものです。

『岩波講座言語の科学 5 文法』の「2 文法の基礎概念Ⅰ」はよくまとまっていると思いました。内容に賛成しているわけじゃないのです。きちんと読めば、わかるように書かれています。ここにあるくらいのことは、確認しておくべきですね。

この本は1997年に出たものですから、その後の変化については書かれていません。しかし基本的概念の記述を見ると、この本の解説はすぐれていると思います。これがわかっていれば、その後の動向も理解しやすくなるはずです。まずこれを理解すべきでしょう。

それで…。先に進みましょう。例文を5つに分けて、「先日/北海道で/A山が/激しく/噴火した」となっていましたね。「激しく」は[噴火のありさまを説明している。このような成分を述語修飾成分と呼ぶ](p.45)とあります。これは、これでいいでしょう。

問題は、「先日/北海道で」の説明の仕方です。これらは「述語修飾成分」に含まれることにもなりそうですが、同時に別扱いが妥当だという立場をとっています。そのため、ここは丁寧に見ておく必要があるでしょう。以下のように解説されています。

▼文頭において、出来事が生起した時と場所を表すものがある。これらの成分は、述語修飾成分の一種ともみられるが、ここでは、文頭に表れている点を重視し、一般の述語修飾成分とは区別して状況成分と呼ぶことにする。 p.45 『岩波講座言語の科学 5 文法』

「状況成分」の要件は、前提条件として「述語修飾成分」であること、さらに①文頭に表れていること、②出来事が生起した時と場所を表すもの…となるようです。ポイントは①でしょう。文頭になかったら「状況成分」にはならないのです。

「A山が先日、激しく噴火した」となった場合、「先日」は状況成分になりません。ずいぶん絞り込んだ概念です。「文頭」というのは狭い条件ですし、「時と場所」を表すものに限っているようですから、適応範囲はかなり狭くなります。

「A山が先日、北海道で、激しく噴火した」という文の場合、「先日/北海道で/激しく」が述語修飾成分になって、3つが同じように扱われるのです。どうでしょうね。「先日/北海道で」と「激しく」を同列に扱うのに違和感はありませんか。

狭すぎる概念を提示すると、そこから漏れたものが、みょうな分類のされ方をすることがあります。その弊害に陥っていると感じさせられる例です。①の「文頭」の条件を外し、②の「時と場所」以外の条件も考慮する必要があるかもしれません。

それから変形した例文のほうも見ておきましょう。「先日、北海道で、激しく噴火したのがA山でした」の「先日、北海道で」は文頭にあって、時・場所を表しています。しかし述語「A山でした」を修飾していませんから、「状況成分」にはなりません。

さてそうなると、「先日/北海道で/A山が/激しく/噴火した」のうち、残っているのは「A山が」です。この成分はどうなるでしょうか。[述語が表す事態に関する情報を補う役割を担っている]から[補足成分と呼ぶことにしよう](pp..44-45)とあります。

補足成分という概念は必ずしも明確ではありません。「述語が表す事態に関する情報を補う」とあります。「噴火した」という事態に関する情報を補っているかどうかが問題になるでしょう。「状況成分」と関連させながら、詰めていく必要がありそうです。

さらに「A山が」を補足成分だとすると、「A山が」は主語ではなくなりますから、主語の概念が問題になります。この点、明確です。[主語は述語と相互依存の関係にあって、その意味で、対等な関係にあるものと考えられる](p.46)と記述されています。

ここから述語が中心的要素だと考える理由もわかるはずです。例文の「A山が」は述語を補う存在でしかないと言いたいのでしょう。述語と「相互依存の関係」「対等な関係」にはないということです。[主語否定論の立場に立つ]と書かれています。

ここで、[主語肯定論の立場に立つ見方もある](p.46)という書き方をしている点にも、注意しておきましょう。主語否定論の方が有力だということです。ただし、[この問題はまだ解決されたとは言えない](p.47)とも書きそえられています。

述語の概念がいびつですから、「相互依存の関係」「対等な関係」にはならないという立場にもなりうるのでしょう。しかし、これでは日本語の構造は説明できませんから、補正が必要になります。それが主題の概念です。このときの説明の仕方が問われます。

ひとまず主題の話は、次にふれましょう。そうなると成分に関して、これで終わりになります。日本語の基本構造を作っている成分は、主題を加えれば、これで全てです。列記すれば「述語成分」「補足成分」「述語修飾成分」「状況成分」「主題成分」になります。

4 主題の概念の妥当性

さてここから主題についてみていきましょう。その前に復習しておかないと、何だかまだ心配ですね。成分が5つだけですから、もう一度確認しておきましょう。注意が必要なのは「状況成分」と「補足成分」でした。解説でも、それらが取り上げられています。

2つの例文をあげて解説されていますので、確認していきましょう。例文では「先週の土曜」が共通している言葉です。
(a) 家族皆で先週の土曜に花見に出かけた。
(b) 先週の土曜日、近所で火事があった。

前の例文(a)の「先週の土曜に」は補足成分になります。わかるでしょうか。構造を見てください。以下のようになっています。
・家族皆で   出かけた
・先週の土曜に 出かけた
・花見に    出かけた

述語に対して、「いつ出かけたのか」を補足していると言えなくもありません。これが状況成分にならないのは、文頭に置かれていない点から明らかです。「述語修飾成分」のようにたんに述語を修飾するだけというより、「情報を補」っている感じはあります。

あとの例文(b)「先週の土曜日、近所で火事があった」の方も構造を見ておきましょう。この文での「先週の土曜日」は状況成分であるということです。こちらも丁寧に見ていけば、分かると思います。
・先週の土曜日 あった
・近所で    あった
・火事が    あった

まず「先週の土曜日」が、述語を修飾していることは間違いありません。さらに文頭に置かれていて、「出来事が生起した時と場所を表すもの」ですから、状況成分に該当します。区分自体はわかったのではないでしょうか。ひとまず、これで復習は終りです。

さて、問題となる主題の話です。これをどう説明するかが問われます。[「~は」という表現を主題成分(または、単に主題 topic)と呼ぶことにしよう](p.46)と記されています。問題は、実質的な概念の方です。以下のように説明されています。

▼「~は」という成分は、「~について言えば」という意味を表し、それに続く表現がその成分に対する説明を与えている点が特徴的である。 pp..45-46

ここでも例文をあげて解説していますので、それを見ましょう。以下、並べておきます。
(c) 空は青い。
(d) 空が真っ暗だ。

形式的に見て、「は」が接続するのが主題です。「が」の接続するのは「補足成分」になります。両者の違いはどこにあるのでしょうか。これも並べておきます。

(c)の「空は青い」の場合、[「空」というものに対して「青い」という説明を与えている]ということです。

(d)の「空が真っ暗だ」の場合、[「空が真っ暗だ」という観察された状況をそのまま言葉で描きあげている]ということになります。

主題の場合、説明をしているのです。一方、「補足成分」だと、「観察された状況を描いている」ことになります。この違いだという解説です。観察された状況を描くときには、「~が」になり、「~は」のときは観察ではなくて対象の説明になるとうことでしょう。

しかしそうだとすると、おかしなことになります。たとえば、ガガーリンが「地球は青かった」と言ったそうです。「~は」となっていますから、観察したものでなくて、対象の説明をしていることになります。しかしこの言葉は宇宙から地球を見ての言葉でした。

例文の「空は青い」を「空は青かった」にしただけで、観察しているというニュアンスになります。「青い」を「青かった」にしたなら、「空は」が主題でなくなるのでしょうか。そうはなりませんね。そうすると、ここの部分の説明はおかしいのです。

「空は青かった」でも「空が青かった」でも、観察された状況を描いているように感じるでしょう。主題は「~について言えば」という意味を表しているともありました。それならば、「空について言えば、青かった」というなります。具体的に見てみましょう。

たとえば、「夕方で、雨上がりでしたけどね、空について言えば、青かったですね。それが印象に残っています」という言葉から、「空について言えば、青かったです」を抜き出して、簡潔に表現するなら、どうなりますか。「空が青かった」となりませんか。

ここで最後の言葉を少し変えて、「夕方で、雨上がりでしたけどね、空について言えば、青かったですね。それだけは覚えています」という言葉ならどうでしょう。「空について言えば、青かったです」を簡潔に表現するなら、「空は青かった」でしょう。

率直なところ、この種の説明で、きちんとしたものなどそう簡単に見つかりません。そうした中で、『岩波講座言語の科学 5 文法』の「2 文法の基礎概念Ⅰ」はよくできた説明でした。もちろん概念の区分が妙な感じですから、賛成はできませんけれども。

専門職のビジネス人が、本当に日本語について考えようとするとき、読むべき文法書がないのです。これまで見たところは、基本概念の部分ですから、ここでおかしいとなったら、その先には行けません。役に立たなければ、文法書など読まれるはずないのです。

     

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■現代の文章 第24回 主題の概念

 

1 主題の概念と判別の齟齬

日本語で、読み書きをしようとする人にとって困るのは、読み書きの実践の場面で、主題という概念を日本語でどう使ったらいいかということです。主題の定義がはっきりしていないため、簡単には使いこなせません。

ハが接続する言葉が主題だと言われて、わかったという人がいたら、それは幸せです。実際に書くということになれば、そんなルールでは使えません。私たちが、ハ接続の言葉を見たときにすることは、その言葉が文末の主体になっているかどうかのほうです。

河野六郎は、「この本はもう読んだ」という例文の「この本は」が主題だと言いました。たしかに、感覚的に「この本」が主題らしいと感じます。しかしこの場合でも、わたしたちは主体であるかどうかを確認しようとするはずです。主題の確認を意識しません。

日本語を読み書きする人間が、まず第一に確認することは、「この本は」が文末の主体かどうかです。主題であるかどうかは、必要なら意識すればよいでしょう。ただし主題であるかどうかがわかっても、どう使えばよいかがわからなくては意味がありません。

主題の実質が、明確になっていない点が問題なのです。河野が言及した主題に関する原則がありました。それを見ると、実際に使う場面で、矛盾することが出てきます。そんな話を前回しました。もう一度、原則を並べておきましょう(p.106 『日本列島の言語』)。

[1] 【主題(thema)】とその【説明(rhema)】による心理的な表現秩序
[2] 【主語-述語】の論理的関係とは別の関係
[3] 【主題(thema)-説明(rhema)】は言葉の自然な発露に従った文の構成
[4] 何かを言う際、まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたものが【主題(thema)】
[5] 主題について論理的関係の如何を問わずに述べたものが【説明(rhema)】
[6] 助詞ハによって【主題】が提示される
[7] 助詞ガによって【主語】が提示される
[8] 日本語の場合、論理的構成よりも、心理的叙述に適した言語である

[心理的な表現秩序]ですから、論理的な関係ではありません。大切なことは、[言葉の自然な発露に従った文の構成]のなかにおける主題の概念です。こうした主題の実質的な概念と、形式的な判別結果が一致すれば問題ありません。

原則からすれば、[4] 何かを言う際、まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたものが【主題(thema)】であり、その場合、[6] 助詞ハによって【主題】が提示されるはずです。しかし、そうならない例があるということでした。

「この本ですが、私はもう読みました」という例文では、原則[4]と[6]の矛盾が感じられます。この例文では、まず念頭に浮かんだ概念を言葉にして、「この本ですが」と言ったに違いありません。主題は「この本ですが」と感じるのが自然なことです。

もし主題が「この本ですが」だとしたら、その解説・説明部分はどうなるでしょうか。「他の人は知りませんが、私はもう読みましたよ」となります。「この本」がテーマで、「私はもう読みました」と説明することに、自然な感じがするはずです。

ところが例文で助詞ハがつくのは「私は」です。この「私は」が主題だと感じる人は少数派でしょう。ひとまず少数派なのはよいとしても、「この本ですが」を無視して「私は」が主題だとすると、その説明は「もう読みましたよ」となります。

【私は】と【もう読みました】という関係は、主題-解説だと言われても、ピンときません。それよりも、「もう読みました」の主体が「私」になっている点を意識します。そうであるならば、いわば【主語-述語】の論理的関係でしょう。

使う側からすると、ハ接続の言葉が主題だと言われても、妙な感じになります。問題なのは、形式的に判別されて主題だとされた言葉が、実質的な主題の概念と一致するかどうかです。形式的判別と実質的な概念に矛盾があれば、実質が優先されることになります。

主題の実質的な概念は、[何かを言う際][言葉の自然な発露に従っ]て、[まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたもの]でしょう。こう考えて、改めて例文を見るとどうでしょうか。「この本ですが、私はもう読みました」の主題を「私は」にするのは無理です。

前回書いた通り、読み書きをする側にとって、【主題は助詞ハによって提示される】という原則が納得できるのであれば、問題はありませんでした。しかし、主題となる言葉が、ハ接続になるというのは、ただのあてはめでしかないと感じます。

理論的な裏づけがあるわけではありません。そうなっているという主張でしかないのです。ただの思いつき、そう考えると都合がいいだけではないかと感じます。使う側が、そう感じる場合、強引に、そうなっていると主張しても無駄なことです。

使う側の視点に立てば、主体の確認が必要なのはわかります。誰がどうしたのかは、大切な問題ですから、それを間違えたら困ります。ハがついたり、ガがついたら主体になることが多いものの、一対一対応にはなっていません。だから確認が必要です。

実質的な問題である「主体であるかどうか」ということならば、確認が必要になります。主題が使えるようにするためには、主題の実質的な概念を明確にすること、さらに主題の判定する基準が適切であることが必要です。ハ接続というのは、ハズレでした。

主題の概念とは、[何かを言う際][言葉の自然な発露に従っ]て、[まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたもの]と考えてよいのでしょうか。そうであるなら、どういう場合に主題になるのかが問題になります。以下、英語で主題をどう使うのかを見てみましょう。

          

2 英語における主題概念の使われ方

上田明子は『英語の発想』の「5.文と文をつなげてパラグラフを構成する」で、[隣り合って並んでいる文と文の関係]について解説しています。ここで示されるのが[「文」の文法的な考え方と情報伝達に果たす役割]という2系統のことです(p.89)。

2系統はそれぞれ2つずつあって、4つのポイントが示されます。見出しは以下です。
① 普通の文と強調の文
② 同じ主語を続ける
③ 既知の情報と新しい情報
④ 新しい情報から始める文

2系統のうち、文法的な考え方は①と②になり、情報伝達に果たす役割は③と④になります。①②は「主語-述語」の関係、③④は「主題-解説」の関係とも言えるでしょう。そうなると、主題の中核的な役割は、情報伝達に関わることになりそうです。

上田は[4項目の要点]として、以下のように、上記を言いかえています。
① 文法で扱う文-主語と述部
② 同じ主語を続ける
③ 情報の流れ:既知の情報→新情報
④ 文頭では-文の最初の要素にも新情報

まず第一に、標準の文形式と強調の文形式があり、強調の場合、語順が変わる形式となるので、それは例外と扱われるということ。第二に、文をつなげていく場合、主語をころころ変えずに、同じ主語を続けていくのが原則です。ここまでが文法的な関係について。

第三に、情報の流れとして、既知の情報を先に言い、そのあと未知の情報に言及するのが標準的で自然な流れであること。ところが第四に、いきなり新しい情報からはじまる文があり、この場合、新しい情報は文の主語になっていないことが多いということです。

こうした[4項目の関係を整理して、混乱なく文章の構造を述べていくために、シーム(theme)とリーム(rheme)という、文法の主語+述部とは別の2分法を立てます](p.97 『英語の発想』)と上田は記していました。

ここでいう【シーム(theme)とリーム(rheme)】というのは、河野六郎のいう【主題(thema)-説明(rhema)】にあたります。「thema」はチェコ語・ドイツ語での表記、「theme」は英語のようです。

「theme」は一般的には「テーマ」のことですが、その表記では、さまざまな意味が付加されるおそれがあります。上田はあえて「シーム」と表記したのでしょう。大切なことは、【シーム(theme)】=【主題(thema)】ということです。

それでは、上田はシームというものをどう説明しているでしょうか。

▼シームとは、文の最初に来る語ないし語句のひとまとまりです。例えば、名詞(句)、副詞(句)などがあり、形容詞(句)が倒置により文の最初に出てくる場合もシームとなります。 p.97 『英語の発想』

シームの後の[文の残りの部分](p.98)がリームです。このように、[シーム・リームを、上のように、まず形の上から定義]しています。この判別法は、河野六郎の言う主題の実質的な概念と整合性を持っていると言えそうです。

河野は主題の実質的な概念を、【[何かを言う際][言葉の自然な発露に従っ]て、[まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたもの]】としていました。まず念頭に浮かんだ言葉が、文の最初に来るのは自然なことでしょう。

ここでの上田の説明は、英語についてなされたものです。これを日本語に適応できるかどうか、確認が必要になります。

           

3 「シーム(主題)-リーム(解説)」と「主語-述部」

幸いなことに、上田明子は『英語の発想』「9.日本語の特徴を考える」で、日本語の場合のシームに言及していました。日本語の原文とその英訳を並べたうえで、何がシームになるかを、具体的にあげています。

日本語の文は高橋英夫『西行』からの引用(p.190『英語の発想』)です。そこに英訳を付していますので、ここでのシーム=主題がどう判定されているのかが見えてきます。高橋英夫『西行』の原文は、以下です。

▼平成二年(1990)は、西行円寂後八百年の遠忌に当たっていた。その年のうちには行けなかったが、次の年平成三年の四月上旬にこの寺を訪れてみると、ちょうど境内の桜が満開を少し過ぎたところであったらしく、坂道をあがってゆくにつれて、ここもまた桜の寺であるのが明らかになってきた。 高橋英夫『西行』

上田は、この例文を3つのパートに分けて、日本語と英訳の【シーム=主題】をとりだします。以下、[原文、訳文とも、シームと考えることができます](p.195 『英語の発想』)とのことです。

(1) 【平成二年(1990)は】 ⇔ 【The second year of Heisei(1990)】was…
(2) 【その年のうちには】 ⇔ 【That year】, I couldn’t…
(3) 【次の年平成三年の四月上旬に】 ⇔  but 【at the beginning of April, the next year, that is the third year of Heisei】, when I visited

上田は[英語の散文について用いたシームの考え方を、この部分では、そのまま応用できます]と記しています(p.195 『英語の発想』)。形式的な定義である[シームとは、文の最初に来る語ないし語句のひとまとまり](p.97)を、日本語にあてはめたのです。

ここで重要なのは、日本語の主題を「は」接続と固定的に対応させていない点です。
(1)【平成二年(1990)は】と、(2)【その年のうちには】の主題には「は」が接続していますが、しかし(3)【次の年平成三年の四月上旬に】では「は」接続になっていません。

この例文を変形させて、「次の年平成三年の四月上旬に、わたしはこの寺を訪れてみた」となった場合でも、主題は【次の年平成三年の四月上旬に】になるはずです。文のはじめにおかれる言葉であることならば、そうなります。

河野六郎は[まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたもの](p.106 『日本列島の言語』)が主題だとしていました。さらに[日本語といえども、文は、ある主題について述べられることがふつうであり、その主題を示す必要がある](p.106)ということですから、主題が表記されるのは原則といえそうです。

「次の年平成三年の四月上旬に、わたしはこの寺を訪れてみた」という文で、最初に頭に浮かんだのは、「次の年の平成三年の四月上旬のことだったなあ…」ということでしょう。それに対して「私はこの寺を訪れてみたのです」と解説が加わります。

上田明子は「主語-述語」と「シーム(主題)-リーム(解説)」の2系統を使う理由として、先に記した4つの要点を使って[文章の構成を説明するために必要最小限の用語]だと記していました。4つの要点をもう一度、示しておきます。

① 文法で扱う文-主語と述部
② 同じ主語を続ける
③ 情報の流れ:既知の情報→新情報
④ 文頭では-文の最初の要素にも新情報

このうち、①②が「主語-述語」の文法的な秩序であり、この秩序のもとでは、原則として先に既知の内容が示され、続いて未知について述べることになります。③の場合、はじめに示される内容を担うのが主語であり、同時に「シーム=主題」だということです。

上田は、③に該当する[They didn’t know him personally.]という例文をあげて、「They」が「主語=シーム(主題)」であり、「didn’t know him personally」が「述部=リーム(解説)」であると確認しています。

③の場合、[主語とシーム、述部とリームが一致しているので][主語・述部、シーム・リームの2つの分野を立てる必要はありません](p.100 『英語の発想』)。このタイプならば、既知の情報から未知の情報へという情報の流れになっているからです。

一方、④の形式の場合、文のはじめに新情報が提示されています。このとき[主語の前に、それとは別な要素]が置かれることになります。この主語の前に置かれた新情報がシーム(主題)になっているのです。この場合、主語と主題が一致していません。

④の場合、主題=シームが提示され、そのあとに主語が続きます。未知の情報がシーム(主題)であり、その後に続く既知の情報が主語になるという構造です。

▼1つの文の中で主語には既知の情報を担わせて、情報の流れの、既知の情報→新情報は、主語から出発させられます。加えて、主語の前にシームという単位を置いて、これに別の新情報を担わせることができます。 pp..100-101 『英語の発想』

つまり、(1)文の骨組みになる「主語-述語」には論理的で安定した秩序を維持させること、(2)新情報を「主語-述語」の前に置くことで、センテンスの安定性を維持しながら、未知の情報を提示する秩序を作るということです。

上田の説明は、「主語-述語」と「シーム(主題)-リーム(解説)」の役割分担を明確に示しています。語られる内容とその主体からなる「論理的な秩序」と、既知の情報と未知の情報からなる「情報伝達の秩序」の2系統の秩序で、文章の構成を明確にするものです。

      

4 主題の概念と情報の流れの秩序

「主題と解説」と「既知と未知」について、マテジウスの理論の原則がありました。以下の2つからなっています。

[1] 文は【主題(theme)=シーム】と【その説明(rheme)=リーム】からなる。
[2] 情報の流れは、【すでに知られているもの(既知)】から【まだ知られていないもの(未知=新情報)】へと流れるのが原則である。

上田明子が『英語の発想』で行った説明は、マテジウスの理論の原則にそったものでした。日本語文法における主題の概念とはかなり違ったものになっています。上田の場合、主題の概念(シーム)を使うのは、情報伝達の秩序のチェックのためでした。

この意味での主題と解説の概念ならば、文と文を構成するときにこそ、使うものです。実際のところ上田がシームとリームを持ち出してきたのは、「5.文と文をつなげてパラグラフを構成する」でのことでした。

文をどうやって並べてゆくかということです。このとき新情報の提示の仕方が大切になります。主題=シームをどう配置するかという問題です。上田は書いています。

▼新情報をいくつかの文のシームにおいて、「ある場所では…」「次には、どうやって…」と推移を表したり、「あるときには…」「一方、他のときには」と比較を表す組合せをつくることができます。それによって、いくつかの文からなるパラグラフの中で、連続とまとまりをはっきりさせるという役割を果たすのです。 p.105 『英語の発想』

ここで上田は、主題=シームが文章構成において役割を果たすということを示しました。センテンスを構成する秩序というよりも、文章における情報の流れの秩序として主題=シームを扱っています。

上田はシームを並べていました。「ある場所では…」「次には、どうやって…」「あるときには…」「一方、他のときには」のように示されると、日本語文法での主題の概念とずいぶん違っていて、主題だという感じがしません。

それと同時に、主題とされる言葉には「は」接続が多く見られるという点に気づくでしょう。とはいえ「は」の接続をもって主題であると判別することにはなりません。「が」の接続が主語を示すことにならないのと同じことです。

「は」と「が」の接続の違いに基づいて、文法的な機能の違いを示そうという試みは、かなりズレた発想でした。日本語文法を扱う人たちが、主語と「は・が」の関係を意識しすぎたのではないでしょうか。

マテジウスは『機能言語学』で、[既知のものだとして示すことができないものから陳述を始める場合、提示される観念全体の複合体から、容易に認識できる観念をとりだして、それを出発点とすることが非常に多い](p.94)と記しています。

いささか面倒な言い回しです。新情報に当たるものから記述をスタートさせる場合、[容易に認識できる観念]をとっかかりにするということでしょう。その場合、客観的な条件となるものが選ばれやすくなります。

マテジウスは、「湖の堤の上に若者が立っていた」という例文をあげています。ここでは[「湖の堤」を容易に認められるもの、与えられたものとして取り出し、この場所的設定を陳述の基礎として](p.94)いると指摘しました。

あるいは「秋のある日…」などのように[与えられた出発点に容易になりうるのは、時には時間的設定]であるとも指摘しています。

場所的設定や、時間的設定に当たるものを「主題=シーム」にするということは、先に引いた上田明子の示したシームの例でも、おわかりになるでしょう。「ある場所では…」「あるときには…」「一方、他のときには」がシーム(主題)の例として並んでいました。

マテジウスのあげた例文「湖の堤の上に若者が立っていた」では、「若者が」という日本語になっていましたが、ここを「若者は」とすることも可能です。「湖の堤の上に若者は立っていた」の場合でも、主題(シーム)は「湖の堤の上に」のままでしょう。

あるいは「若者が」を前に出して、「若者が湖の堤の上に立っていた」にしたならば、主題(シーム)は「若者が」になるはずです。「若者がね…」どうしたのかと言えば、「湖の堤の上に立っていました」となるでしょう。この場合、主題=主語になっています。

文法的な秩序とは別の概念である「主題=シーム」を情報の流れとして使うのは、意味のあることでした。しかし「は」「が」の違いを説明するために、主題を持ち出すのは見当違いだったというべきでしょう。

助詞「は」の機能が重要なのは間違いありません。しかし主題がハ接続だという公式的な見方は、読み書きをする側には、役に立たないのです。少なくとも、日本語を論理的に記述しようとする場合には、使えません。

日本語文法における「主語-述語」の概念に問題があったために、主題が登場したのでしょう。「主語-述語」の概念から見直すしかありません。

     

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■現代の文章 第23回 主題と主語:ハとガの関係

 

1 使う側の視点

前回、助詞の「は・が」と「既知・未知」の関係について記しました。既知ならば「は」が接続し、未知ならば「が」が接続するとしたら、なかなか魅力的なことのようにも思います。実際に、それが当てはまりそうな事例もありました。

しかし、当てはまらない事例がいくらでも出てきます。どうもこれは違うな、ということになりました。理論の正しさを証明しようとすると、事例の解釈が強引になりがちです。それでは理論やルールとして使えません。

簡単なことではありませんが、無理なく自然に使えるルールが欲しいものです。そのためにも、ルールはシンプルにできたら、それに越したことはありません。実際のところ、わかってみると、なんとシンプルなことかと思うこともあります。

同時にそれを安直に求めれば、無理をすることになるでしょう。切れ味のよい見解は、しばしば間違います。既知と未知が「は・が」に対応するというのも、支持されなくなりました。こうした点を十分に意識して検証していく必要があります。

主題と「は」、主語と「が」の組合せに関しても、同様でしょう。河野六郎は「日本語(特質)」(『日本列島の言語』)で、[ハとガの違いは][主題と主語の違い]であり、[助詞ガによって主語を示す](p.106 『日本列島の言語』)と記していました。

河野は続けて、[主題の提示は、主語-述語の論理的関係とは別の関係である]と記しています。この点が大切です。主語-述語の論理的関係で分析することを否定する必要はありません。これとは別に、主題-解説(説明)で分析すればよいのです。

しかし日本語が論理的でないという発想があると、これが違った方向に行きます。「主語-述語」で考えるのをやめて、「主題-解説」だけで考えるべきだという主張が出てくるのです。

庵は『新しい日本語学入門』で三上章の主張を紹介しています。[三上は「主語」や「主述関係」に代えてどのような概念を用いたのでしょうか。その概念は主題です。主題というのは、その文で述べたい内容の範囲を定めたものです](p.87)。

「主語-述語」という関係を日本語で使おうとすると、たしかに不都合が起こります。それは「主語」「述語」の概念が欧米語と大きく違っているからです。それでは「主題」の概念が明確になっているかと言えば、そうではないでしょう。

まじめな学生が、「主語-述語」というのがわからないと言ってくることがあります。文を書くときに使えないということです。このことはそのまま、「主題-解説」の場合にも当てはまります。

「主題・主語」を「は・が」と関連づけようとするなら、「主題・主語」の概念を明確にする必要があるでしょう。従来の「主語」概念に問題があるのは確かです。しかし「主題」が明確にならないのであれば、「主述関係」ばかりを否定するわけにもいきません。

河野は、主語を記さない形式で文が成立する言語を「単肢言語」と命名しました。主語の明記が必要かどうかで、言語を区分しているのです。日本語文法でも、主語の概念を使うという前提になります。日本語は主語の明記が必要でない単肢言語ということです。

日本語の特徴として河野は、[主体が了解されている場合]、主語がなくとも[これだけで立派に一文を成しうるのであって、あるべき主語を省略しているのではない]と記しました。一方、[主体が明らかでないときは][助詞ガを添えて]主語を明記するのです(p.98 『日本列島の言語』)。

河野六郎の見解は魅力的なものです。しかし「主語・述語」、あるいは「主題」の概念を確認しておかないと、その先に進むことができません。以下で、河野の見解を見ていきましょう。

     

2 主語と「が」の関係

河野は以下のように書いています。

▼述語動詞が文の要であって、文の最後に位する。日本語は、この文末という位置を述語動詞の形態のうえに明示している。すなわち、「終止形」と呼ばれる活用形がそれである。 p.98 『日本列島の言語』日本語(特質)

河野は述語動詞の特徴として、(1)「文の要」であり、(2)文の最後、文末に置かれ、(3) 終止形が使われるという3点をあげています。

文の要になるのは、キーワードが述語で束ねられるということでしょうか。述語動詞が文末に置かれる例はしばしば見られます。たとえば「放課後、私は本を図書館に返却しました」という例文は、以下のような構造になるとはずです。

・放課後  返却しました
・私は   返却しました
・本を   返却しました
・図書館に 返却しました

河野は「述語動詞」という言い方をしていますが、これは述語動詞に限らないことです。「今日の演奏会で、私は彼女の演奏が一番好きでした」という例文を見ると、以下のようになります。

・今日の演奏会で 一番好きでした
・私は      一番好きでした
・彼女の演奏が  一番好きでした

文末部分の中核になる言葉は「好き」です。この言葉の品詞は動詞ではありません。動詞なら終止形がウ段ですし、イ段の活用形に「ます」が接続するはずです。「好く」が終止形だったとしても、「好き・ます」とは言えません。

活用形がない体言なら、「だ・である」が接続可能です。活用形がある言葉なら、「の・こと」をつけて体言化することができます。「好き・だ」と言えて、「好き・の・だ」とは言えません。そうなると「好き」は体言だと考えられます。

従来、「好き」という言葉は、形容動詞という品詞に該当しました。活用形の有無の判別法が明確でない中で、無理やり作った品詞のようにも思えます。「です・ます・だ・である」の接続と、体言化するときの「の・こと」の接続で判定したほうが確実です。

いずれにしても「好き」は動詞ではありません。河野のいう「述語動詞」が文の「要」になるというのは、絞りすぎになります。文末の中心的な語句である狭義の述語の概念からすると、動詞だけでなく、形容詞も名詞も述語になります。

「要」をキーワードを束ねる機能だと考えると、その役割を果たすのは、ほとんど述語動詞になることは確かです。それ以外を例外としていたのかもしれません。しかし、それでも別の問題が出てくるのです。

河野は主題には「は」が接続し、主語には「が」が接続すると主張しました。[ハとガの違いは][主題と主語の違い]であり、[助詞ガによって主語を示す](p.106 『日本列島の言語』)ということでした。

そうなると先の例文「今日の演奏会で、私は彼女の演奏が一番好きでした」の場合、どうなるでしょう。主題は「私は」であり、主語は「彼女の演奏が」になりそうです。主語というのは主体・主格だったはずですが、どう判断すべきでしょうか。

「一番好きでした」の主体は人になるはずです。「今日の演奏会で、私は彼女の演奏が一番好きでした」の主語は「私は」でなくてはおかしいのです。しかし「が」接続は「彼女の演奏が」になっています。

主体が了解されている場合、主体を明記しなくても文が成立するのが日本語の特徴でした。「私は」と「彼女の演奏が」を省略してみるとどうなるでしょうか。

(a)「今日の演奏会で、彼女の演奏が一番好きでした」
(b)「今日の演奏会で、私は一番好きでした」

河野の言う[これだけで立派に一文を成しうる]に該当するのは、(a)のほうでしょう。文末の主体が主語だと言えるなら、そのほうが使えます。その場合、主体になる言葉は「が」接続に限りません。「は」を添えることもあります。

要の概念を最重視すると、述語の概念との違いが出てくることは、以前の連載であれこれ書きました。主語の概念も、文末の主体と簡単に言い切れないのです。河野は以下のように記しています。

▼このガは主語を意味するが、文法的には補語であって、「主格的補語」とでも呼ぶべきものである。そして、この補語は、他の補語と同様、述語動詞を限定する従属的要素で、常に述語動詞に先行する。 p.98 『日本列島の言語』

これは通説あるいは有力説というべき見解かもしれません。要になる述語動詞の前に並んだキーワードの中で、主語だけが特別な存在ではないということでしょう。しかしここで[ガは主語を意味する]と限定的に解釈すると、逆にわからなくなります。

先の例文の構造をみましょう。
・放課後  返却しました
・私は   返却しました
・本を   返却しました
・図書館に 返却しました

いつ返却したのか、誰が返却したのか、何を返却したのか、どこに返却したのか、その問題意識によって、「放課後」「私は」「本を」「図書館に」の価値評価が変わってきます。その意味で主体だけが特別ではないと言うのは、その通りです。

この例文でいうと、「は」接続の「私は」だけが「主題」であって、特別な存在だということにはならないでしょう。一般人の感覚では、文末の主体である点で特別だとは言えますが、上記のように問題意識によって、価値評価が変わるのは当然です。

河野の「日本語(特質)」から、主語の概念が明確になったとは言いかねます。これならば「文末」を、要になる機能を重視した概念として構築して、文末の「主体(=センテンスの主役)」という発想で考えたほうが、ずっと使えるものになるはずです。

しかし河野の場合、[主語-述語の論理的関係とは別の関係である][主題(thema)とその説明(rhema)による、心理的な、表現秩序]を重視して、[日本語という言語は、論理的構成よりも心理的叙述に適した言語である]と記していました(p.106 『日本列島の言語』)。

主語よりも主題のほうが使えると見ているようです。ひとまず主語については、ここまでにしておきましょう。主題のほうが問題です。

       

3 河野の主題に関する原則

河野六郎の主題についての見解を見ていきましょう(p.106 『日本列島の言語』)。

[1] 【主題(thema)】とその【説明(rhema)】による心理的な表現秩序
[2] 【主語-述語】の論理的関係とは別の関係
[3] 【主題(thema)-説明(rhema)】は言葉の自然な発露に従った文の構成
[4] 何かを言う際、まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたものが【主題(thema)】
[5] 主題について論理的関係の如何を問わずに述べたものが【説明(rhema)】
[6] 助詞ハによって【主題】が提示される
[7] 助詞ガによって【主語】が提示される
[8] 日本語の場合、論理的構成よりも、心理的叙述に適した言語である

マテジウスの「コメント・トピック」論を日本語にあてはめたものになっています。ポイントは言うまでもなく、[6]と[7]です。「は・が」を【主題(thema)-説明(rhema)】と【主語-述語】に関連づけたことが、正しいのかどうかが問題になります。

先に述べた通り、使う側の視点で見ていきましょう。何が主題であるのか、きちんと判別できるかどうかということが、まず問題になります。助詞ハがつけば、主題だと認識されるでしょうか。主題の概念と共に確認が必要になります。

河野は、「コノ本ハモウ読ンダ」という例文をあげていました(p.106 『日本列島の言語』)。以下、この例文を見ていきましょう。

「この本はもう読んだ」の場合、主題は「この本は」です。
【この本は】【もう読んだ】
「この本に関して言えば」、「もう読んだ」よ…となります。

「私はこの本をもう読んだ」ならば、主題は「私は」です。
【私は】【この本をもう読んだ】
「私に関して言えば」、「この本をもう読んだ」よ…となります。

「この本ですが、私はもう読みました」の場合、主題は「私は」なのでしょう。河野の[6]を見る限り、そうなります。
(この本ですが)【私は】【もう読みました】
「(この本ですが)」「私に関して言えば」「もう読みました」よ…となります。

なんだか「この本ですが」が宙ぶらりんの感じがするでしょう。自然な発想で行くと、主題は「この本ですが」になります。河野の[4]でいう[何かを言う際、まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたもの]に該当すると感じるからです。

【この本ですが】【私はもう読みました】
「この本に関して言えば」、「私はもう読んだ」よ…となります。
こちらの方が自然な受け取り方でしょう。

言うまでもありませんが、ここでの「が」は主語を提示していません。「この本ですが」が主語であると感じる人はいないでしょう。「が」は主語をあらわすだけの助詞ではありません。そうなると、「は」も主題をあらわすだけの助詞とは言いにくくなります。

読み書きをする側にとって、【主題】は助詞ハによって提示されるという原則が納得できるのであれば、問題ありません。しかし、そんなに簡単ではなさそうです。

例文を変形させて「この本ですが、もう読みました」になったら、主題のない文章になるのでしょう。しかしこの例文を見て、この文の主題は何になりますかと聞いたなら、たぶん「この本」という答えが多数になるはずです。主題の概念がわからなくなります。

「この本なんですけどね、私はもう読みましたよ」と言いたい場合に、「この本」が文頭に来るのはおかしくありません。このとき、他の人はどうも読んでないようだけど、自分はすでに読んだというニュアンスがあるなら、「私」が必要になります。

この場合、「この本は…」が文頭に来て、それに続けると、「この本は、私はもう読みました」と「は」が重なります。ここで「私は」を「私が」にするのはおかしいでしょう。「この本は、私がもう読みました」ではニュアンスが違ってきます。

こういうとき、助詞の重なりを避けようとして、「この本ですが、私はもう読みました」とか、「この本ですけどね、私はもう読みました」という言い方をしても、おかしくありません。しかしこのとき、主題が「私は」になることには、違和感があります。

「まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたもの」という河野の主題の原則[4]に反するのではないでしょうか。「助詞ハによって【主題】が提示される」という河野の主題に関する原則[6]が、原則[4]と対立することがあるということです。

どちらが実質的であるかと言えば、主題の原則[4]の方でしょう。「は」がつけば主題であるというふうに、形式的に決めるのは無理がありそうです。「は」がついても主題にならないもの、あるいは「は」がつかなくても主題になるものがあるならば、主題の原則[6]は成り立たなくなります。

そもそもの発想が、逆転していたのかもしれません。文を書く当事者の視点に立てば、こういうことを言いたいときには「は」をつける、こういうことならば「が」をつけるといった形式によるルールが必要なのです。

「は」がついていたら、こういう概念になり、「が」がついていたら、こういう概念になるという発想は、書く側の視点ではなくて、読む側の視点でしょう。主題や主語という抽象概念をあらわす用語になると、読む場合でも使いにくいはずです。

河野の主題に関する原則のうちの2つが矛盾することがあるということになります。
[4] 何かを言う際、まず念頭に浮かんだ観念を言葉にしたものが【主題(thema)】
[6] 助詞ハによって【主題】が提示される

ルールを使う側の視点に立つと、[4]の原則が優先されることです。[6]はルールとして成立しません。そうなると河野の言う[ハとガの違いは][主題と主語の違い](p.106 『日本列島の言語』)という見解は成立しないということになります。

すでに「が」がつく言葉が主語になるとは言えない点を見ていました。主題の場合も、同じことが言えます。「は」がつく言葉が主題になるとは言えません。

      

4 単肢言語の特徴の裏づけ

主語と述語、主題と解説というルールを使おうとしたら、それらの概念を明確にする必要があります。主語も述語も、いささか困った概念になってしまいました。再定義するしかなさそうです。主題も簡単に元年を明確にできそうにありません。

こういうときに、機械的に「は・が」で区別できたなら楽ですが、以上みてきたように、そういう対応にはなっていません。「主語-述語」の概念を再定義したほうがよさそうです。文末の概念を明確化し、その主体をセンテンスの主役と考えるほうが合理的です。

一方、[主語-述語の論理的関係とは別の関係である][主題(thema)とその説明(rhema)による、心理的な、表現秩序](p.106 『日本列島の言語』)に関して、日本語ではまだ主題の概念も安定していませんから、使い方が確立するはずもありません。

河野の主題についての原則を参考にしながらも、別の観点から見ていく必要がありそうです。「主題-解説」の使い方は、日本語ではまだ確立していないというべきでしょう。

ここで宿題をまずやらなくてはいけません。「貴方は適任」と「貴方が適任」の違いを説明せよという問題でした。両者の違いは「は」と「が」です。

「は」という助詞が、どんな機能を持っているかが問題になります。特定し、限定するのが「は」の主要な機能です。従って、特定したもの、限定したもの以外について、言及することにはなりません。あるものに対して、それだけについて語るニュアンスが出てきます。

「貴方は適任」がどういうニュアンスを持っているか、以上からわかるはずです。「他の人は知りませんけどね、貴方は適任ですよ」という評価をしていることになります。他との比較でなくて、絶対的な評価です。従って、客観的なニュアンスが出ます。

助詞「は」は、特定し限定して、それについての絶対的なニュアンスをもち、客観性も帯びます。そのため助詞「は」は対象を強調するアクセントが、助詞の中でも一番強いものになりました。

一方、助詞「が」の場合、選択肢のある中から選び出して、決定するということが主要な機能といえます。選択肢から選ぶということは、相対的な評価だということです。また選択する過程で、当事者の評価が入りますから、主観的なニュアンスをもちます。

「貴方が適任」がどういうニュアンスを持つか、もうおわかりでしょう。「いろいろな方がいらっしゃいますけどね、貴方が適任ですよ、私はそう思います」ということになります。この場合、評価というよりも推奨というニュアンスというべきかもしれません。

もし自らが自らを選択して決定する場合、意思を表すことになります。これもおわかりでしょう。「私が行きます」という文から、「私」の意思を感じるはずです。「私は行きます」ならば、他の人とは関係なく、自分のことのみ、たんたんと語っていることになります。

助詞「が」も、選択して決定するのですから、強調のニュアンスを色濃くもっていると言えるでしょう。相対的な強調ですから、助詞「は」の絶対的な強調に比べればマイルドになります。

特定し限定する助詞「は」と、選択し決定する助詞「が」には、強調する機能があるということです。主体が不明の場合に、原則として「は・が」をつけて目印にして、確認を求めるのは、自然なことでしょう。

主題がわかっているときに、あえて主体に「は・が」をつけたら、強調になるのも、こうした理由からです。わかりきったことならば、ほとんどの場合、あえて強調する必要はありません。主体がわかる場合に、原則として主体を明示しないのは自然なことです。

河野六郎が提唱した単肢言語には、3つの特徴がありました。
[1] 主体を明示しなくても分かる場合、主体を明記しないのが原則である。
[2] 主体がわかるにもかかわらず主体を明記する場合、主語は強調になる。
[3] 主体がわからない場合、主体を明記することが文の成立に必要である。

なぜ単肢言語には、こうした特徴があるのか。助詞「は」と「が」の機能を見れば、おわかりだろうと思います。もはや上記の「主体」を「主語」と記述する必要はないでしょう。「主語」よりも、要である文末の「主体」の方が、上記を明確に表します。

主体という言葉がわかりにくいと言われて、多くの方に聞いてみたところ、いちばんわかりやすいと言われたのが、「主役」という言葉でした。文末の主体がセンテンスの主役です。主体でも主役でもどちらでもよいでしょう。

以前の連載でも述べましたが、問題は、述語の概念の方にあります。述語の概念がずれている場合、その主体にもずれが生じます。これについては、また戻ってくることがあるでしょう。

その前に「主題-解説」をどう使うのかについて、次回、見ていきたいと思います。文法的な分析とは別の、情報の流れを分析するものです。中心となる概念は、既知と未知ということになります。

      

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■現代の文章 第22回 河野六郎の主張する単肢言語

 

1 大野晋の「既知・未知」の解釈

前回、河野六郎の「日本語(特質)」(『言語学大辞典セレクション 日本列島の言語』所収)に関連した事項について見ました。まだマテジウスの主張との関連を確認した程度で終わっています。問題にしたマテジウスの理論の原則は、以下の二つでした。

[1] 文は【主題(thema)=テーマ=題目】と【その説明(rhema)=レーマ=解説】からなる。
[2] 思考の流れは、【すでに知られているもの(発話の基礎=既知)】から【まだ知られていないもの(発話の核=未知)】へと流れる。

日本語の文法との関係で、既知と未知と「は」「が」の関係が問題になりました。既知の情報を表すときには「は」を接続させ、未知の情報を表すときには「が」を接続させるという主張があります。これは成立しないことを前回、記しました。

この既知・未知については、大野晋『日本語文法を考える』の3章「既知と未知」で説明しています。この本は1978年に刊行されました。ひろく読まれたものですから、既知・未知について、多くの人が大野の説明で知ることになったと言えるかもしれません。

井上ひさし『私家版 日本語文法』では、『日本語文法を考える』に先立つ1975年の『文学』43巻9号にある大野の「助詞ハとガの機能について」を取り上げています。その内容を、こんな風に要約しています。

▼大野晋はこう説いている。すなわち、話題を提起する場合に、最初に話題を示すときには「が」を用い、その後は「は」を用いるということから、「が」は未知の、新しい情報を示す、「は」は既知の、古い情報を示す p.31 『私家版 日本語文法』

こうした理解に基づいて、しかし[作品の冒頭からいきなり「は」が用いられている例は際限なくある](p.33)と記して、大野説を退けています。おそらく「既知と未知」ということを、井上ひさしのように理解するのがふつうです。

ただし、大野晋は違った解釈を要求しました。「あなたのお嫁さんは、ぼくが世話をするよ」という例文を出して、[「あなたのお嫁さん」というのは、突然出て来たのにハで表されていると考える人もあるかもしれない](p.46 『日本語文法を考える』)と記しています。その解釈は間違いだということでした。

この例文では、[話し相手が独身であるという][事実の上の文脈に立っているのだから][「あなたのお嫁さん」は両者の間ですでに知られた話題である。従ってハがそこに使われる](p.46)というふうに考えるのです。

[「お嫁さん」が誰になるか未定であることと、話題として既知であるということを混同してはならない](pp..46-47)と、不明確な苦しい説明を行っています。これでは、大野にいちいち確認しないと、既知だか未知だか決めかねることになりそうです。

前回示した例文「1904年3月、その王様はパリ郊外のお城に住んでいました」の場合、あるいは「2011年3月11日の午後、おじいさんとおばあさんは仙台のホテルに滞在していました」は、どうでしょうか。物語の冒頭に出てきた「その王様」や「おじいさんとおばあさん」が[すでに知られた話題]というのは、かなり無理がありそうです。

多くの人が使えるようにするためには、シンプルな形式が必要になります。「あなたのお嫁さんは、ぼくが世話をするよ」における既知が「あなたのお嫁さん」であり、お嫁さんを世話するくらい親しいはずの「ぼく」が未知になるという解釈は不自然です。

文脈を持ち出して、そこでの解釈に基づいて、既知と未知を決めるようでは、文法のルールとしては使えません。大野の考えは、マテジウスなどの理論をふまえたものではないでしょう。大野の独自解釈が前面に出ていて、いまから見るとそこが不安定です。

            

2 「は・既知」「が・未知」の破綻

大野は『日本語文法を考える』の「補註」に[既知と未知という考え方は、すでに『標準日本文法』(松下大三郎、1924年刊)に、新観念、旧観念の語で取り上げられている](p.213)と記していました。この流れの中に大野もいたということになります。

2001年の『新しい日本語学入門』で庵功雄は、[「は」と「が」の使い分けの問題]について[「情報の新旧」という観点からこの問題を考えることも出来ます。そうした説の代表は久野暲(1973)です]と言い、[この久野の説には批判もありますが、日本語教育をはじめ広く使われています](p.257)と書いていました。

1981年に出版された北原保雄の『日本語の文法』(「日本語の世界6」)では、「第七章 主題をめぐる問題」の中に「既知と未知」の項目が立てられ(p.253)、それ以降、章末(p.282)まで「既知・未知」のことが論じられています。

しかしそれ以降、一般向けの日本語文法の本では、「は」と「が」について「既知・未知」と関連づけた記述は見当たりません。例えば、この連載で触れてきた一般向けの本に、以下があります。

1989年刊行:吉川武時『日本語文法入門』
1991年刊行:野田尚史『はじめての人の日本語文法』
2000年刊行:森山卓郎『ここから始まる日本語文法』
2012年刊行:原沢伊都夫『日本人のための日本語文法入門』

これらの本には「既知・未知」の項目が見当たりません。助詞「は」の接続と既知情報、助詞「が」の接続と未知情報というふうに結びつけるのは、かなり無理をしたものでした。

1994年刊行の千野栄一『言語学への開かれた扉』で、[近年になってプラハ学派を中心に考察されている functional sentence perspective なる理論で、「ハ」と「ガ」の機能に再び関心が集まっている](p.95)と記されていました。ここでの「近年」がいつなのかは正確にわかりません。

1986年に出た『外国語上達法』で、千野栄一は[日本語の「は」と「が」](pp..77-79)の項目で、「既知・未知」と関連づけた記述をしていました。これは暴走だったように思います。もはやこの部分は、否定的に扱うしかないでしょう。

どうやら1980年代の終わりには、「は・が」と「既知・未知」を関連づけるのが無理だということになったようです。そのこと自体は、よいことでした。

しかし「既知・未知」の考えは、情報の流れとして大切な視点です。この視点を否定すべきではありませんし、それどころか「コメント・トピック」論との関連を否定することなどできません。

すでに見たマテジウスの理論の原則について、あらためて見ておいたほうがよさそうです。

[1] 文は【主題(thema)=テーマ=題目】と【その説明(rhema)=レーマ=解説】からなる。
[2] 思考の流れは、【すでに知られているもの(発話の基礎=既知)】から【まだ知られていないもの(発話の核=未知)】へと流れる。

千野栄一の『言語学への開かれた扉』には、以下の記述があります。

▼「コメント・トピック」論はマテジウス自身が述べているように、マテジウスが考え出したものではなく、言語研究の世界では古くから注目されていたテーマであるが、それを言語と言語外現実との関係という形で捉え直し、文の文法的分析と対応する発話の視点からの分析と位置づけて、文法的分析との関係を追求し、改めて言語学のテーマとして取り上げたところにマテジウスの功績がある。 p.236 『言語学への開かれた扉』

ここを読んだだけではわかりにくいでしょう。[文の文法的分析と対応する発話の視点からの分析]ということがポイントになります。「コメント・トピック」論は文法的な分析とは別の分析法であること、それは情報の流れからの分析であるということです。

こうした理論的な整理がなされた後であるならば、文法のルールの基礎になる解釈は標準化されていくはずでした。いまから読むと、大野晋『日本語文法を考える』での「既知・未知」の解釈には、いささか強引な印象があります。

この点、河野六郎の「日本語(特質)」の場合、マテジウスなどの言語学の成果をふまえた上でのものです。主張が明確なため、おかしかったら、それを指摘しやすいようになっています。

              

3 単肢言語の特徴

千野栄一『言語学への開かれた扉』によると、[河野六郎が言語学界に占めるユニークな地位の第一は文字論である](p.264)とのことです。さらにもう一つの柱がありました。取り上げたいのは、こちらの第二の柱の方です。

▼河野言語理論の第二の特徴は、言語の本質をなす構造のタイプはそれほど多様ではなく、少数の統辞論的タイプを表す指標が、かつての形態論的な類型論の根底にあるとみている点にある。主語、述語という文における二項主義と、述語だけが文の主要構成要素になる一項主義を区別し(これはマルチネの考え方と同じである)、河野は同じ一項主義でも、モンゴル語から日本語にいたる言語の主なる特徴として、アルタイ型用言複合体という考えを披瀝している。 p.265 『言語学への開かれた扉』

千野の言う「二項主義」と「一項主義」について、「日本語(特質)」の河野は、「両肢言語」「単肢言語」という言い方をしています。河野の命名です。両肢言語とは、以下のようなものだと記しています。

▼印欧語では、主語と述語は文の不可欠の要素である。このように、主語と述語を常に明示しなければならない言語を、仮に両肢言語とよぶ。 p.98 「日本語(特質)」『言語学大辞典セレクション 日本列島の言語』

一方、日本語は単肢言語だということになります。河野の説明によれば、[日本語は、主語は必要に応じてしか表わさない。述語中心の単肢言語である](p.98 「日本語(特質)」)というものです。

河野は言語の構造タイプを、主語と述語の明示の点から区分しました。主語+述語が明記されるタイプの「両肢言語」に対して、主語が欠落しても成立する述語中心の「単肢言語」である日本語について、河野は解説を加えています。

▼たとえば、行クという表現は、日本語としては、これだけで立派に一文をなしうるのであって、あるべき主語を省略しているのではない。もちろん、それは、文脈の中で、行ク主体が了解されている場合である。その主体が明らかでないときは、私ガ行クとか、彼ガ行クとか、助詞ガを添えて言う。 p.98 「日本語(特質)」『言語学大辞典セレクション 日本列島の言語』

ここは、すこし注意しないといけません。主語がないという点について、[あるべき主語を省略しているのではない]ということです。[主体が了解されている場合]には、主語は必要ないから表記しないという立場にたっています。

千野栄一が『言語学への開かれた扉』で、この点をわかりやすく説明しています。あわせて読んでみると、河野の言うことの意味は分かるはずです。まず第一段階として、千野は、以下のように記しています。

▼よく聞かれる例は、「日本語は主語をよく略す」という表現である。この「略する」という言い方はすでに主語がなければならないことを前提にしていて、主語があるのが当然という立場に立っている。 p.93 『言語学への開かれた扉』

主語が記述されていないのは、省略されたのとは違うというのです。千野は[世界の言語における文のあり方を見ると、言語によっては主語・述語と揃うのが文のパターンの基本である言語もあれば、述語一つあれば十分な言語もある](p.93)と、河野の見解を確認しています。

千野はわかりやすいように、[日本語はあくまでも述語だけの文が本来の姿](p.94)という言い方をしました。[述語だけ]というのは、やや踏み込み過ぎかもしれませんが、河野が「主語は必要に応じてしか表わさない」(p.98 「日本語(特質)」)と言うのは、主語がないのが本来の姿だということになります。

河野の言う単肢言語とは、主語が明示されなくてもセンテンスを成立させることのできる言語ということです。主語がなくても成立するセンテンスは[述語中心](p.98 「日本語(特質)」)の構造になります。

このように主語を明記する必要がないセンテンスにおいては、主語を省略したわけではありません。主語がないほうが本来の姿だということです。この点を、千野は以下のように説明しています。

▼「あなたは学校に行きますか」、「はい、私は学校に行きます」が普通の文である言語と、「学校に行くの?」、「うん、行くよ」で十分な言語があって、後者は前者を略したものではない。日本語で「あなたは学校に行きますか」、「はい、私は学校へ行きます」というのは正しい日本語で可能な文ではあるが、「あなたは」と「私は」が強調されている文で、「Do you go to school?」 Yes, I do.」の訳ではない。 p.93 『言語学への開かれた扉』

主語を明示しなくても分かっているときに、あえて主語を記述する場合、その主語を強調しているということです。記す必要がないときには、記さないのが原則だということになります。「単肢言語」の特徴として、以下を確認しておきましょう。

[1] 主体を明示しなくても分かる場合、主語を明記しないのが原則である。
[2] 主体がわかるにもかかわらず主語を明記する場合、主語は強調になる。
[3] 主体がわからない場合、主語を明記することが文の成立に必要である。

       

4 「主語とガ」「主題とハ」の関連づけ

千野栄一の主語の省略ではないという説明の仕方は、わかりやすいものでした。補助線として有用なものです。同時に、河野六郎の考えとの違いも見えてきます。河野の主張を確認するために、このあたりも見ておきましょう。

河野は、センテンスの[主体が明らかでないときは、私ガ行クとか、彼ガ行クとか、助詞ガを添えて言う](p.98 『言語学大辞典セレクション 日本列島の言語』)と記しています。主語には「が」を接続させるという考えです。さらに河野は言います。

▼このガは主語を意味するが、文法的には補語であって、「主格的補語」とでもよぶべきものである。そして、この補語は、他の補語と同様、述語動詞を限定する従属的要素で、常に述語動詞に先行する。 p.98 「日本語(特質)」『言語学大辞典セレクション 日本列島の言語』

これを踏まえて、河野はこんな風に書きました。

▼日本語は、上述のように単肢言語であるから、主語は不可欠の要素ではない。そして、必要があれば、補語として助詞ガによって主語を示すことができる。 p.106 「日本語(特質)」『言語学大辞典セレクション 日本列島の言語』

千野の場合、一般向けの文章だったためなのか、主語・述語という学術用語をあまり厳格に使っていません。先に引用したように、[述語だけの文が本来の姿](p.94 『言語学への開かれた扉』)というときの「述語」の使い方は妙なものでした。

さらに同じ本で千野は、「あなたは学校に行きますか」と「学校に行くの?」とを並べて、後の文に「あなたは」がないことについて、[後者は前者を略したものではない](p.93)と書いています。ここで千野は、「は」のつく「あなたは」を主語だとしているのです。

河野は[主題を示すのが助詞ハであるが、ハは、主語を示すのではない](p.106 「日本語(特質)」)と記しています。[ハとガの違いは、このように、主題と主語の違いであって、主題の提示は、主語-述語の論理的関係とは別の関係である](p.106 「日本語(特質)」)というのが河野の主張でした。

ここでの千野の説明が間違いだとは言えません。学校文法なら、「私は」「私が」も、「あなたは」「あなたが」も主語と扱われます。一般的な世の中の理解をみるなら、こうした認識が主流かもしれません。

とはいえ多くの文法学者は、河野の同様、「は」と「が」を区別して扱っています。河野は[ハとガの違いは、このように、主題と主語の違い]であり、[助詞ガによって主語を示す](p.106 「日本語(特質)」)という認識でした。

単肢言語と言う場合に問題になるのは、主語の方です。主題については、記述するのが原則であるという認識のようです。以下のように河野は記しています。

▼日本語といえども、文は、ある主題について述べられることがふつうであり、その主題を示す必要がある。 p.106 「日本語(特質)」『言語学大辞典セレクション 日本列島の言語』

河野が主題を示すハの事例としてあげた例文は「コノ本ハ、モウ読ンダ」でした。「コノ本ハ」がこの例文の主題です。「読ンダ」の主体は「私」になります。「読んだ」の主体者である「私」が記述されていないので、主語がない文となるでしょう。

河野は主題の指標として「は」の接続を主張していました。従って、例文が「コノ本ヲ、モウ読ンダ」となった場合、主語がなく、主題もない文だということになります。

主題があるのがふつうだと河野は書いていましたし、たしかに「この本」を主題にした「コノ本ハ、モウ読ンダ」の文の方が、「コノ本ヲ、モウ読ンダ」よりも、おさまりがよいように感じます。

一方、「私はこの本を、すでに読み終えました」という文があったら、「私は」が主題ということです。この場合、学校文法でもみられた「主部+述部」の構造と同様になります。【私は】+【この本を、すでに読み終えました】という構造です。

この例文の場合、【主部】+【述部】と、【主題】+【解説】が一致しています。

一方、「この本は、すでに読み終えました」という文の場合、【この本は】+【すでに読み終えました】という【主題】+【解説】の構造です。

「この本」は文末の「読み終えました」の主体ではありませんから、【主部】+【述部】の構造にはなりません。

河野たちのいう「コメント・トピック」論の場合、「は」接続の言葉を主題とみなすことによって、客観的に【主題】+【解説】の構造をつかむことができます。「主題」と「は」の関係にぶれが生じないのであれば、この構造は安定したものです。

多くの一般向け日本語文法の本で、「コメント・トピック」論を採用しています。「既知・未知」と「は・が」の関係とは違うようです。では、河野の言うように、「は」が接続する言葉が主題になると言ってよいのでしょうか。それが問題になります。

ここで一区切りつけましょう。次回、「コメント・トピック」論を適用させた事例を、もう少し見てみる必要がありそうです。

今回残念なことに、宿題に応えられませんでした。「貴方は適任」と「貴方が適任」では、ずいぶんニュアンスが違います。両者がどう違うのかまで踏み込めませんでした。

「貴方」が既知だったり、未知だったりするわけではありません。「貴方」が主題であり、あるいは主語であると言われても、それだけで納得する人は、まずいないでしょう。

単純に主題と「は」を関連づけただけでは、役に立たないのです。たとえば「貴方は適任」と「貴方が適任」の違いが説明できるようにならない限り、「は・が」の問題は解決したことになりません。

      

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■現代の文章 第21回 マテジウスの理論と日本語

 

1 時間の経過と論理性

ここしばらく、展覧会の手伝いをしていました。画家にとっても、おそらく最後の大きな個展になります。一日来てもらえれば十分だという話でしたが、実際のところ、ほとんど何も準備が進んでいなくて、何日も出かけることになりました。いささか無理をすることになったという次第です。

絵の世界は、文章の世界と大きく違います。これは養老孟司が語ったそうですが(久石譲『感動をつくれますか?』:pp..27-28)、絵の世界には時間軸がないということです。映像でも、文章でも、時間の経過があります。絵の場合、ぱっと見て、それで全体像が示されますから、時間軸のない世界です。

時間軸のない世界は、センスを鍛えるのにきわめて大切な領域といえます。全体をいきなり見て判断できますし、比較も容易です。見えるものがあるということは強力な武器になります。時間軸がなくなると論理が後退して、感覚が正面に出てくることになるのです。

私たちは経験をするとき、ある時、ある場所でという前提条件が設定されます。私たちが生きている限り、絵の世界とは違って、空間軸だけでなく時間軸の中にいるのは不可避なことです。時間軸と空間軸という経験に先立つ条件のなかで、私たちは生きています。

あることが起こり、続いてあることが起こる場合、両者の関係が問われることも出てくるでしょう。時間を隔てたものの関係性が問われる場面があるということです。しかし空間だけの世界なら、その世界を構成する要素を見出し、そのバランスを感じ取ることだけでも、全体像の把握が可能になるのでした。

しかし時間の経過が不可欠の世界では、感覚だけではどうにもなりません。養老孟司が言うように、[時間の経過のうえで成り立っているものは、論理的構造を持っている](『感動をつくれますか?』:p.28)ということになります。

論理構造を持っているということは、つねに論理的だということではありません。論理だけでなく、感情も入り込みます。けれども、そこには論理が存在する場所があるのです。時間軸が入り込むと、論理が問われる場面が出てくることになるでしょう。

加藤徹が「本当は危ない『論語』」で[近代的な文章は、それだけを黙読して完全に理解できる](p.149)ものであると記しています。ここでは文章の意味内容を読む側が解釈できて、それが一つの意味内容に収斂していく形式の文章だということでした。

ここでも、論理を問題にしているわけではありません。事実がわかるように記し、このときの気持ちはどうだったのかを記せば、たいてい話は理解できます。これだけでは論理性があるとは言えませんが、[黙読して完全に理解できる]ことにはなるはずです。

「こういうことがありました。そのとき、こんな様子でした。私はこう思いました」。こういう形式の文章であるならば、わたしたちはたいていの内容を理解することができます。しかし論理的な文章とは言えそうにありません。

何かが提示され、それに関して、どうであるかを示されたなら、多くの場合、話は通じます。気持ちはよくわかるのです。日常生活で、わたしたちはそれほど論理的な話をしているわけではありません。このあたりの事情を谷崎潤一郎が記しています。

▼ここに困難を感ずるのは、西洋から輸入された科学、哲学、法律等の、学問に関する記述であります。これはその事柄の性質上、緻密で、正確で、隅から隅まではっきりと書くようにしなければならない。然るに日本語の文章では、どうしてもうまく行き届きかねる憾みがあります。(中略)
この読本で取り扱うのは、専門の学術的な文章でなく、我等が日常眼に触れるところの、一般的、実用的な文章であります (谷崎潤一郎『文章読本』 p.58/p.71:中公文庫版)

加藤徹がいう「黙読して完全に理解できる」文章を書くという段階までが、谷崎の『文章読本』の対象ともいえるでしょう。話が通じるなら、理解しあえます。それが日常的な文章です。

これとは別に、[緻密で、正確で、隅から隅まではっきりと書く]文章が存在します。それが論理的な文章です。[黙読して完全に理解できる]のに対して、さらに絞り込んだ条件が加わるということになります。

             

2 論理的な記述が可能な言語

日本語の散文を確立しようとするとき、目標としたのは、理解できる文章にすることではありません。谷崎が[日本語の文章では、どうしてもうまく行き届きかねる]と記した[緻密で、正確で、隅から隅まではっきりと書く]文章の確立が目標でした。

理解できる文章というのは、いわば前提条件でしかありません。近代的な散文にするためには、論理的な文章という条件と、すでにこの連載でも言及していた言文一致の文体が不可欠になります。言文一致の文章とは、以下の岡田英弘の文章を読めばわかるでしょう。清国からの留学生が驚いたのです。

▼日本では、話しことばをそのまま文字で書きあらわすことが可能であり、文章を読みあげればそのまま、耳で聴いてわかる言葉になることを発見して、新鮮な衝撃を受けた。 p.195 『歴史とはなにか』

『日本語の歴史6』(平凡社ライブラリー)で指摘されていたように、[論理的であるとかないとかという以上の、あまりにも大きなもの](p.188)として言文一致がありました。近代的な文章になるためには、3つの段階があると考えることも可能でしょう。

[1] 理解可能な文章 : 話の内容が一義的にわかること
[2] 言文一致の文章 : 話し言葉が記述できて読んで理解できること
[3] 論理的な文章  : 緻密で正確な内容を明確に記述すること

このうち、[1]は近代以前にも成立していた基礎的な前提条件でした。[2]も1900年頃までには確立したと言えそうです。[3]は、谷崎潤一郎の『文章読本』が書かれた1934年(昭和9年)時点では、まだ難しかったようですが、その後、確立したと考えられます。

佐藤優が『悪魔の勉強術』で以下のように語りました。谷崎が困難だと言っていた[西洋から輸入された科学、哲学、法律等の、学問に関する記述]が、現在では可能になっているということです。

▼シンガポール国立大学とか、中国の精華大学では、国際金融や物理学の授業は英語でやっていますが、それには歴然とした理由があるんです。グローバル化の影響では決してありません。英語のテクニカルタームや概念を、中国語のマンダリン(北京語)に訳せないからです。つまり、知識・情報を土着化できていない。その点、日本語で情報を伝達できる力というのは、日本が誇れる資産であり、長年の努力の成果だということを、再認識すべきですね。 p.66 『悪魔の勉強術』(文春文庫版)

したがって日本語の文法を語るときに、論理的な文章を分析する形式が整っていなくてはなりません。論理的な文章を記せるようにと苦労してきて、それが達成されたのですから、ルール作りの前提にするのは当然のことです。

      

3 河野六郎による「日本語(特質)」

日本語を主題と解説という文構造で把握するというアプローチは、どんな発想に基づいたものだったのでしょうか。こうした考えが洗練され、整備されたのは、おそらく三上章の時代よりも、もう少し後だったように思います。

『言語学大辞典セレクション 日本列島の言語』にある日本語に関する論文は、もともと1988年9月10日に出された「世界言語編」第2巻に所収されたものでした。この中にある河野六郎の「日本語(特質)」はきわめてすぐれた論考です。これを見ていきましょう。

千野栄一は『言語学への開かれた扉』の「近代言語学を築いた人々」の章で、世界の言語学者を10人選びました。その一人に河野六郎をあげ、[世界の言語学界に日本の言語学者と胸をはっていえる数少ない学者の一人である](p.266)と評価しています。

河野は「日本語(特質)」で[主題の提示は、主語-述語の論理的関係とは別の関係である](『言語学大辞典セレクション 日本列島の言語』:p.106)といい、これをマテジウスの「現実的文分節」(FSP)の問題であると指摘しています。

どういうことでしょうか。[それは、論理的関係ではなく、主題(thema)とその説明(rhema)による、心理的な、表現の秩序である](p.106)とのことです。論理的な文章を分析するものではないということになります。

▼何かを言おうとするとき、まず念頭に浮かぶ観念を主題として、これを言葉にしたものがthemaであり、それについて論理的関係の如何を問わず述べたものがrhemaであって、言ってみれば、この場の自然の発露に従った文の構成である。その点、日本語という言語は、論理的構成よりも心理的叙述に適した言語であると言える。 『言語学大辞典セレクション 日本列島の言語』:p.106

河野は、[日本語といえども、文は、ある主題について述べられることがふつうであり、その主題を示す必要がある。その主題を示すのが助詞ハであるが、ハは、主語を示すのではない](p.106)と言います。

その一方、日本語において、[主語は不可欠の要素ではない。そして、必要があれば、補語として助詞ガによって主語を示すことができる]のです。したがって、[日本語の特徴の一つとされるハとガの違いは、このように、主題と主語の違い]ということになります(p.106)。

ずいぶん明確な説明です。ただし[マテジウスの「現実的文分節」(FSP)の問題]というものが、よくわかりません。さいわい、この点を千野栄一が『言語学への開かれた扉』と『外国語上達法』で解説しています。

千野は、『言語学への開かれた扉』の「近代言語学を築いた人々」に、[具眼者ビレーム・マテジウス]を取り上げていました。さらに『外国語上達法』ではもっと具体的な説明をしています。

なお、千野は『外国語上達法』で[神々の饗宴]という項目を立てて、圧倒的に語学のできる神々として「S先生」と「R先生」を登場させていました(p.34)。S先生とは木村彰一、R先生とは河野六郎であると言われています。

『外国語上達法』「5 文法」に[マテジウスの「文の基礎と核の理論」]という項目がありますので、これを見ていきましょう。[チェコの有名な言語学者V・マテジウス]は[1882年に生まれ1945年に死んだ英語・英文学者で、一般言語学者]です(pp..75-76)。

▼現在のことばでいえば「対象言語学」にあたる言語性格学の一般理論を作りあげ、また言語研究における機能主義的取り扱いの重要さを主張したのである。特に、統語論における機能主義的取り扱いにより発見されたのが「文の基礎と核の理論」と呼ばれる理論である。 p.76 『外国語上達法』

ここにいう「文の基礎と核の理論」について、千野は『言語学への開かれた扉』で説明しています。[マテジウスの術語では「発話の基礎と発話の核」、今日の術語では「コメント」と「トピック」、あるいは、「テーマ」と「レーマ」と呼ばれている問題](p.235)であるとのことです。

河野が言及している[マテジウスの「現実的文分節」(FSP)の問題]というのは、[「コメント」と「トピック」、あるいは、「テーマ」と「レーマ」と呼ばれている問題]と言ってよさそうです。

千野は[マテジウスの理論を『若い文献学研究者のための百科事典』(モスクワ、1984年)の中で要約したI・I・コフトゥノーバの説明を引用しています。以下、その引用を孫引きします。

▼「これは、文を言葉の題目を示す部分と、その題目について述べている部分の二つに、意味の上から分析するものである。ことばの発話は、話されたものであろうと書かれたものであろうと、既に知られているもの、話し手により命名されているか、あるいは対話者を目前にあるものから、読者あるいは聴き手にまだ知られていないものへの思考の動きをそこに反映している。話し手の思考は既知のものから離れ、話し手からその既知のものについて述べたいと思うものの方へと移行する。既知のものから未知のものへということ過程は、人間の思考方法のユニバーサルな特質である」。 pp..76-77 『外国語上達法』

[発話の基礎(既知のもの)と発話の核(未知のもの)の違いが]、どういう形で示されているのかを問題とし、[文を分析する場合に][文法的分析のほかに、基礎と核による分析があり、この二つの分析方法の間の関係についても考察を重ねている](p.77)ということです。

              

4 マテジウスの理論と日本語

河野六郎の記すものと千野栄一の記すものには、用語の違いがあります。ここで、少し整理しておきましょう。マテジウスの理論の原則は、以下の二つのことでした。

[1] 文は【主題(thema)=テーマ=題目】と【その説明(rhema)=レーマ=解説】からなる。
[2] 思考の流れは、【すでに知られているもの(発話の基礎=既知)】から【まだ知られていないもの(発話の核=未知)】へと流れる。

これらが基本になっています。ただし、これは日本語に限った話ではありません。[人間の思考方法のユニバーサルな特質]だということです。この理論と日本語との関わりが問題になります。

千野は『外国語上達法』で[日本語の「は」と「が」]という項目を立てて、日本語がこのマテジウスの示した問題と、どんな点で関連してくるのかを以下のように記しました。

▼この「文の基礎と核の理論」がわれわれにとって特に興味をひくのは、日本語でこの区別をする手段は、チェコ語のように語順でもなければ、英語のように冠詞や受身構文によるのでもなく、「は」と「が」の区別が似たような区別を担っていることである。 p.77 『外国語上達法』

さらに『言語学への開かれた扉』で、以下のように千野は記しています。

▼近年になってプラハ学派を中心に考察されている functionfal sentence perspective なる理論で、「ハ」と「ガ」の機能に再び関心が集まっているが、他の言語では語順や、冠詞や、受身構文で示されている既知と未知の情報の別が、日本語を含むいくつかの言語では特別な小詞(助詞)で示されているからである。 p.95 『言語学への開かれた扉』

河野六郎が[日本語の特徴の一つとされるハとガの違いは、このように、主題と主語の違い]であると書いていました。これは主題を示すときに接続されるのが助詞「は」であり、主語を示すときに接続されるのが助詞「が」であるということです。

しかし千野の説明をあわせてみると、これだけではなくて、(1) 主題を示すときに接続される助詞「は」によって示されるものは既知の情報であり、(2) 未知の情報を示す場合には、助詞「が」が接続される、ということになるでしょう。

千野は『外国語上達法』で、具体的な例文をあげて説明しています。

「昔あるところに一人の王様がいました」という文の場合、[既知のものがない昔話の始まりのところなので、「王様」という新情報がいきなり出てくる場面である]。[日本語の「王様」は「が」に伴なわれている](p.78)ということになります。

昔話の始まりの場面では、すでに知らている既知情報を基礎にできませんから、[新情報がいきなり出て]きてもおかしくはありません。大切なのは、新情報である「王様」に助詞「が」が接続しているということです。

千野は言います。「その王様には三人の娘がいました」という文が続く場合、[「は」がしのび込んでいて、そのうえ娘は「が」で新情報であることが示される仕組みになっている](p.79)というのです。

すでに登場した「王様」の場合、既知の言葉ですから「王様には」というように「は」が[しのび込んでい]るということになります。一方、新情報である「三人の娘」には「が」が接続しているということになるということでしょう。

[日本語の特徴の一つとされるハとガの違い]について、河野六郎と千野栄一の言う内容を、ここで確認しておきたいと思います。両者の違いを端的に言うと、以下のようになるはずです。

[1] 助詞「は」は、主題を導く助詞であり、「既知」の情報である言葉に接続する。
[2] 助詞「が」は、主語を導く助詞であり、「未知」の情報である言葉に接続する。

示されたものが明確な内容だけに、これが正しいかどうか、検証することはそれほど難しいことではなさそうにもみえます。千野は[「は」と「が」の区別が似たような区別を担っている]と記していました。似ているだけかもしれないのです。

       

5 「は」と「が」の区別と「既知」と「未知」

先に千野が示していた例文を並べて見てみましょう。

【例文】
・昔あるところに一人の王様がいました。
・その王様には三人の娘がいました。

マテジウスの理論では、思考は既知から未知へと流れるというものでした。しかし昔話の始まりに新情報が出てくるのは、おかしなことではありません。かえって自然なことです。ここでは、ストーリーのはじまりに新情報が来る点は問われていません。

日本語の場合、未知の情報のマーク、既知の情報のマークとして助詞の「は」と「が」が使い分けられているという点が問題になっています。一度、登場した情報は新情報ではなくなり、既知になりますから、接続する助詞は「は」になるはずです。

千野の例文では、未知だったときの「王様」の扱いと、既知になったときの「王様」の扱いが、対比されて示されることになりました。新情報であったときの「王様」には「一人の王様が」と、「が」が接続しています。いったん登場したあとでは、「その王様には」と「は」がしのび込んで接続しているのです。

この例文を見る限り、その通りでしょう。しかし、日本語の散文において、必ずそうなるわけではありません。以下の例文を見てください。けして不自然な文章ではありませんが、千野の言う通りにはなっていません。ことごとくその反対になっています。

【例文】
① 1904年3月、その王様はパリ郊外のお城に住んでいました。
② この王様が、あの三人娘の父親でした。
③ 王様にとって三人娘が生きがいのすべてだったのです。

ストーリーのはじめに新情報が示される形式は同様です。①に初出の「その王様」が登場し、新情報に助詞「は」が接続しています。「新情報=未知」に接続する助詞は「が」だったはずです。しかしここでは「既知」に接続するはずの助詞「は」が接続しています。

王様は一度登場していますから、②では既知の情報ということです。既知の情報には助詞「は」が接続するはずでした。ところが既知の情報である「この王様」には、助詞「が」が接続しています。

②で新たに「三人娘」が登場していました。③にもこの「三人娘」が登場します。すでに登場した「三人娘」は既知の情報になるはずです。既知の情報には助詞「は」が接続するはずでしたが、しかし、ここでは「三人娘が」と助詞「が」の接続になっています。

おかしな話です。マテジウスの理論が間違いなのでしょうか。そうではないでしょう。マテジウスの理論に日本語の「は」と「が」を当てはめたのが間違いなのです。簡単な例文を示して、理論の正しさを説明したところで、証明にはなりません。

理論が全く当てはまらない事例が示されたなら、理論の間違いか、理論へのあてはめかたの間違いということになります。千野は[「は」と「が」の区別が似たような区別を担っている]と記していました。似ていると感じることもあるかもしれません。

「むかしむかしあるところに、おじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは…」という例文も、同じように説明されてきました。

ストーリーの始まりに新情報=未知の情報が提示され、そこには助詞「が」が接続しています。すでに登場して既知の情報になったら、助詞「は」の接続になっているのです。しかし、こういう例があるというだけです。

日本語は、こんな原理で「は」と「が」を使い分けてはいません。まったくナンセンスな説明でした。既知の情報に「は」、未知の情報に「が」が接続するなどというルールは日本語には存在しません。

[「は」と「が」の区別が似たような区別を担っている]と千野は書いていましたが、似ているとさえ言えないでしょう。逆の例は、いくらでも出てきます。以下の例文は、不自然な文章ではありません。しかし千野の説明とは食い違います。

【例文】
2011年3月11日の午後、おじいさんとおばあさんは仙台のホテルに滞在していました。
おじいさんが玄関を出ようとした時、大きな揺れを感じました。

ここでも既知情報の言葉には「は」、未知情報の言葉には「が」が接続するなどというルールは、あてはまりません。反対に「未知=新情報」である「おじいさんとおばあさん」には「は」が接続し、すでに登場して「既知の情報」になった「おじいさん」には「が」が接続しています。

既知情報と助詞「は」、未知情報と助詞「が」の組合せは成り立つこともありますが、成り立たないこともあるのです。つまりこの原理は成立しません。別の原理があるということになります。

それだけでしょうか。主題に助詞「は」が接続し、主語に助詞「が」が接続するというのは本当なのでしょうか、こちらも検証してみる必要がありそうです。もう一度、先のまとめを見てみましょう。これが違っているということです。

[1] 助詞「は」は、主題を導く助詞であり、「既知」の情報である言葉に接続する。
[2] 助詞「が」は、主語を導く助詞であり、「未知」の情報である言葉に接続する。

ここでいう後半部分は、[1]においても[2]においても成立しないということになります。そうなると前半部分も、本当ですかということになるのです。ここで一区切りしましょう。また行ったり来たりしながら、話を進めていけたらと思います。

     

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■現代の文章 第20回 『主語・述語』から『主題・解説』へ

 

1 解説なしに完全に理解できる文章

『日本語の歴史6』(平凡社ライブラリー)で、[論理的であるとかないとかという以上の、あまりにも大きなもの](p.188)として言文一致が取り上げられていました。言文一致が成立した後に、[論理的である]ことが求められるようになるという順番です。

古代の文章は、当然、いまの文章にあるような、論理性はありません。[論理的であるとかないとかという以上の、あまりにも大きなもの]の欠落がありました。この点、加藤徹が「本当は危ない『論語』」で記しています。

▼近代的な文章は、それだけを黙読して完全に理解できる。古代の発想は違った。文章は音読すべきものであり、また「記憶を助けるメモ」だった。文章だけ読んでも意味が解らず、文章の真意を代々伝えた初期ないし学者の解説があって初めて、その文章の意味が解る。中国に限らず、古代はそれが普通だった。 p.149 「本当は危ない『論語』」

日本語の近代化の前提には、文章を読んだだけで、相手に伝わるように書くという意識は、あったでしょう。[書物だけ入手しても駄目。書物の真意を伝承している学者をセットで雇い、講釈をしてもらって、初めて意味がわかる](pp..151-152)のでは困ります。

しかし[日本でも、漢文古典の書物が「半完成品」である時代は長く続いた](p.151)とのこと。『孫子』は[日本では学者の秘伝の書物]であり、学者に入門してやっと入手でたようです。しかし入手しても、学者の解説なしでは意味が解らないのでした。

江戸時代になって、[お金さえ出せば、誰でも返り点を印刷した『孫子』を書店で買って読めるようになった](p.151)ということです。日本人にとって、返り点は重要で便利なものだったことがわかります。

しかし、返り点が共通になる古典ばかりではないでしょう。『論語』の場合、さまざまな解釈法が提示されています。加藤徹は、以下のように判定を下しました。

▼漢文古典でも、戦国時代の『孟子』『荘子』『韓非子』などはずいぶん読みやすい。多少の注釈は必要だが、文章だけ黙読してわかる。しかし『論語』は、かなりわかりにくい。 p.150 「本当は危ない『論語』」

問題は[それだけを黙読して完全に理解できる]文章が書けるかどうかです。文章が理解できるように書かれていたら、解説は不要になります。読んだ人が、何を言っているのかが理解できる文章であることが第一の基礎になるでしょう。

したがって、『日本語の歴史6』(平凡社ライブラリー)でいう[論理的であるとかないとかという以上の、あまりにも大きなもの](p.188)にあたるものとして、解説なしに理解できる文章という前提があると言えます。

清朝の留学生が、日本語の言文一致体に驚いた話を岡田英弘は『歴史とはなにか』に記していました。[戦国時代の『孟子』『荘子』『韓非子』などは]言文一致体で書かれてはいません。それでも[多少の注釈は必要だが、文章だけ黙読してわかる]文章です。

論理的かどうかよりも前に、何を言っているのかが理解できなくては困ります。何を言っているのかが理解できると言うことは、示される意味内容が一義的に決まるということです。こちらが前提でしょう。その上で、言文一致体であることが必要になります。その次に、論理性が問われることになりそうです。

しかし実際には、意味内容が一義的に決まる文章なら、おおくの場合、論理的なのです。加藤徹も[それだけを黙読して完全に理解できる]文章の条件の一つとして、以下のように書いています。

▼漢文の文法では、英語などと違い、かならずしも主語を明示しなくてもよい。とくに前後の文脈から主語が判断できる場合は、主語をいちいち書かないのがふつうである。逆に言うと、主語を明示しなくても読者が前後の文脈からすんなりと主語がわかるよう、達意の漢文を書く必要がある。 pp..165-166 「本当は危ない『論語』」

このことは、日本語にもそのまま当てはまることでしょう。日本語に近代的な散文が成立する前から、主語に該当する言葉はありました。しかし近代的な散文になる過程で、「主語」を明示する頻度や、意識することが多くなったことは間違いありません。主語の明確さが文の論理性と結びついています。

この論理性の一番の基礎には、[それだけを黙読して完全に理解できる]文章であるという条件が来ます。何について語っているかが明確であること、これが不可欠です。語るべき対象となる内容が提示された場合、それが、どうであるのかについて語ることも同時に不可欠になります。

         

2 「主語-述語」から「主題-解説」へ

文章が語る対象が何であり、それがどういうことであるかを示すことは、あたりまえのことだったはずです。こうした文章の一番の基礎となることが、主語概念と結びつくのは、当然の成り行きでした。実際に、そうなったのです。

学校文法では、主語を重視しました。このことは同様に、主語に対応する述語を重視するということになります。ところが学校文法では、主語、述語の概念を明確化せずに、また標準化もせずに、そのままなんとなく使っていたのです。

あまりにも感覚的な使い方であったと言えます。文法学者にすれば、日本語の文法として、ふさわしい説明になっていないと感じたはずです。そこで述語の概念を発展させることになります。狭義の述語を設定して、品詞を問いました。さらに述語を分解していくことで、本質を理解しようとしたようです。

小西甚一は『古文の読解』(改訂版1981年)に書いています。[文法でいちばん大切なのは、何が何を修飾するかということ]であり、さらに[文法でいちばん大切でないのが、品詞分解]ということです(p.239)。

述語を分解したのは、品詞分解をしたようなものだったのかもしれません。本来の機能がかえって見えなくなりました。述語の概念では、文の構造が見えてきません。

そこで何度か、文末の概念で考えてみたら、という話をしました。文末を一体的な概念として理解することによって、センテンスを終了させてセンテンスを独立させる機能と、意味内容の確定の機能を持たせることができるのです。そうすれば、センテンスの要としての地位が確立します。

センテンスの要である文末の主体を「主語」と呼ぶのは、いささか無理があるのかもしれません。述語の概念を否定する以上、「主語-述語」関係というように、一体的に使われる「主語」という用語は、適切とはいえないでしょう。

文末という用語は文法用語にはありませんが、よく伝わる言葉です。同じように、よく伝わる言葉がないかと探したところ、多くの人が違和感なく使えたのが、「主役」という言葉でした。文末の主体であり、センテンスの主役ということになります。

センテンスの意味を確定して、センテンスを終了する機能を持つ文末の主体となる言葉だからこそ、センテンスの主役というのにふさわしいということです。日本語の場合、文末が要だからこそ、その主体である主役が同様に大切だということになります。

しかし日本語文法の「主語-述語」の概念は、こうした方向とはちがったものになりました。先に出てきたように、「主題-解説」という考え方が出てています。この考えが、どんなものであるのか、確認しておく必要があるでしょう。

庵は『新しい日本語学入門』で三上章の主張を紹介する形で、以下のように書いています。[三上は「主語」や「主述関係」に代えてどのような概念を用いたのでしょうか。その概念は主題です。主題というのは、その文で述べたい内容の範囲を定めたものです](p.87)。

述語の概念を使って、日本語散文の構造を語るのに限界を感じた人たちは、「主題-解説」に飛びついたということです。主語がおかしいのではありません。述語に十分な機能を持たせなかったのが、まずかったのです。これが本来の問題点というべきことでした。

            

3 「述語」概念の廃棄による副作用

述語の概念を廃棄する考えが提示された以上、述語の概念を設定することで得られたものも、一緒に廃棄することになります。しかし述語によるキーワードを束ねる構造を捨て去るのはもったいないという発想もあったのでしょう。

たとえば原沢伊都夫の『日本人のための日本語文法入門』では、第1章で、述語によるキーワードを束ねる構造に触れています。同時に学校文法との差を示すことによって、それまでの「主語-述語」の考えとは違うのだとアピールすることになりました。

学校文法の場合、述語の主体である主語を置くことになります。しかし述語の機能を単にキーワードを束ねる機能だけにして、主語という特別な地位を認めないことにしました。その結果、主語は補語の一種だという位置づけになったのです。

これが問題だったのは、先にも書きました。原沢の上げた例文「母が台所で料理を作る」(p.17)のうち、「母が」「台所で」「料理を」のそれぞれが補語だということになるのでしょう。原沢は、補語と書かずに成分という言い方をしています。

この点、吉川武時『日本語文法入門』が明確に記しているように、主語を特別視せずに、原沢の言う「成分」を「補語」という括りにしています。

原沢の上げた例文「ティジュカでジョアキンがフェジョンをシキンニョと食べた」(p.25)でも、「ティジュカで」「ジョアキンが」「フェジョンを」「シキンニョと」が対等な関係なって、すべてが補語になるということです。

原沢は、これら成分を「必須成分」と「随意成分」に分けています。対等でも何でもなかったのです。主語を特別視しないというだけでした。

吉川武時『日本語文法入門』には、[補語には必須の補語と随意の補語とがある](p.11)とありますから、「必須成分」と「随意成分」に対応しています。「成分=補語」となるのは間違いないでしょう。

述語がキーワードを束ねる機能をもつことを示し、さらには、その束ねたキーワード(要素・補語)を対等だとして、主語を否定してみせたことがポイントでした。主語とは補語の一つにすぎないとした上で、「要素=補語」を必須と随意に分けたのです。

したがって、「主語-述語」という構造を採用してないことには変わりありません。当然のごとく、主語を否定すれば、「主語-述語」という関係は消滅します。しかし「主語-述語」関係を否定したら、当然、述語の機能は使えなくなるのです。

そうなると、述語で束ねられた補語をどう説明するのかが問われます。補語がどういうものかが言えないと、必須成分を抽出するのに苦労するはずです。この点、森山卓郎の『ここからはじまる日本語文法』でのような言い方になります。

▼動詞には、その自体が成立するために情報として最低限必要な名詞がある。これを「格成分(必須補語とも必須成分とも言う)」という(もっとも、日常会話では、わかっている場合は省略されることがある)。 p.58 『ここからはじまる日本語文法』

これに続けて[格成分に対して、それがなくても最低限の事態が成立するという成分を「余剰成分」と呼ぶ](p.58)とありますから、述語を立てていたときの発想を継承していることは確かです。ただし[動詞には]という言い方でしのいでいます。

森山は上記に先だって記していました。[動作が最低限成り立つためには、「誰が」「何を」といった名詞が明らかになっている必要がある](p.58)とのこと。「動作」とか「動詞」に限ったことであるかのように読めます。

たとえば、「あの頃、彼には意地悪なところが一切なかった」という例文はどうでしょうか。述語はおそらく「なかった」になるはずです。「なかった」の品詞はどうなるでしょうか。終止形が「ない」になります。さらに「なかった・です」とは言えますが、「なかった・である」とは言えませんから、形容詞でしょう。

動詞に限って、必須成分と随意成分(余剰成分)とに分かれるわけではありません。述語の概念を使ったことを薄めようとして、苦労している感があります。念のため、「あの頃、彼には意地悪なところが一切なかった」の構造を確認しておきましょう。
・あの頃 …なかった
・彼には …なかった
・意地悪なところが …なかった
・一切 …なかった

ここで「一切」をどう扱うのかはわかりません。すでに「文末」の概念についてお話していましたから、もし文末の概念で考えるなら、以下のようになります。
・あの頃 …一切なかった
・彼には …一切なかった
・意地悪なところが …一切なかった

ひとまず「一切」の扱いが不明ですから、これを外しておきます。「あの頃」は随意成分になるはずです。「彼には」と「意地悪なところが」が必須成分となります。この例文は、「動作」についての文ではありません。「動詞」を含んでいないこともお分かりでしょう。

きっぱりと、「主語-述語」関係を排除すること、ことに「述語」の概念を廃棄することは、潔いようにも見えます。しかしそれによって大切な機能が抜け落ちることになりました。それを苦労して貼りつけていかなくてはなりません。どこかに問題があったのです。

            

4 「主題-解説」関係で考えることの問題点

「主題-解説」で考えると、日本語散文が目指した論理性の説明ができなくなります。これが問題です。文章の発展段階について、もう一度確認しておきましょう。加藤徹「本当は危ない『論語』」の説明をふまえて、確認していたものです。

古代の文章が近代的な文章になるためには、3つの段階を踏む必要がありました。

第一、文章だけで意味が通じるようにすること。
第二、言文一致体を確立させること。
第三、論理性を獲得すること。

「主語-述語」の概念で、なんとか第三の論理性を説明しようとしましたが、途中で述語の機能の説明がおかしな方向に行きました。代わって出てきた「主題-解説」の概念では、第三についての説明を放棄した感があります。その結果として、面倒な論理性についての説明をしなくても済むようになりました。

日本語で論理性について説明するということは、センテンスで「何について語っているか」ということを問うことです。それだけでなく、それについて語られた内容との対応関係を問うことが必要になります。

主語と述語の関係でも、主役と文末との関係でも、ここでの対応関係が特別であるという点が大切です。語られた内容と、それに対応する主体を問うているという点が特別な関係を作っています。

英語の「S+V」の一番のポイントは「S」と「V」が特別な対応関係をつくっているということです。「S」が「V」の主体であることが、文の構造にとって特別だということになります。「S+V」がセンテンスの一番基礎になる骨組みを作っているのです。

これが「主題-解説」でよいのなら、両者に関連性があれば対応関係があると言えることになります。日本語は論理的でないという発想がある場合、論理性を問わないようにするためにも、「主題-解説」で説明するのは都合のよいことでした。

三上章は『象は鼻が長い』という本を出しました。題名が素晴らしい例文になっています。「象は鼻が長い」の主語はなにかと問われて、多くの人が困ったのです。しかし、これはきわどい例文でした。

森山卓郎が『ここからはじまる日本語文法』で[(もっとも、日常会話では、わかっている場合は省略されることがある)](p.58)と記しています。「象は鼻が長い」という言い方は、まさに日常会話で使われるものであって、ビジネス文などでは落第の文章です。

わざわざ、こうしたきわどい例文を示して、どうですかと言われたのでした。まだ文法が確立するどころか、散文としても十分な成熟がなかった時代ですから、十分な説明などできなかったのでしょう。

「象は鼻が長い」を英語にすると、「Elephant has a long nose」ですから、「象は」が最重要語だと言いたくなります。しかし「象は」が主語なら、「長い」と対応関係がなくてはおかしいと思うでしょう。「主語-述語」で考えた人は、苦労したはずです。

「象」が主語ではないと言われれば「そうですね」と言いたくなります。このとき「象」は主語でなくて、主題なのですという主張が出てきたのです。「象は」が主題であり、そのあとの「鼻が長い」が主題の解説だと説明されれば、ああ、そうかとなるかもしれません。

しかし、そもそもの例文がおかしいのです。もし同じ内容をビジネス文にするとしたならば、どう書くでしょうか。おそらく2種類の文になるはずです。(a)「象の鼻は長い」か、(b)「象は鼻の長い動物です」のどちらかでしょう。

「象は鼻が長い」という例文には、不意を突かれたはずです。しかし、これは「日常会話」から切り取ったものにすぎません。日本語の散文として扱うのにふさわしい例文ではなかったのです。

はじめは反発され、そのうち浸透していきました。例文の効果は圧倒的だったようです。こうした日常会話をもとにした例文の構造を簡単に説明できるほど、日本語文法は成熟していませんでした。

しかし、もういいでしょう。三上章のネタも明らかになってきています。どういう理論に基づいていたのかを、まずは確認しましょう。その上で、どこにボタンのかけ違いがあったのか、以下、見ていきたいと思います。

     

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